第9話 始めから好きだった

「どうした?」

「あ、河合。ちょっと疲れた」

 つい甘えが出て気持ちが緩んだ。

「飯食いに行かない」

「え!私と〜」

 陽子は自分に指を指した。そんなこと河合に言われたのは初めて。

「そうしようか〜」

 なんか河合なら甘えても良いような気がした。すっかり疲れ果てて、思考回路も止まっていた。

 二人はそっとアパートを抜け出すと緩やかな坂道を歩いた。二人でこの道を肩を並べて歩くのは初めてだった。河合の気持ちを聞いた後で互いの関係が気まずくなるのかと思ったら、返って気持ちが軽くなっている。不思議だけれど、河合の横にいる時だけ暢子は普通の19歳の芸大生に戻れる気がした。


「どうした。さっき落ち込んでなかった」

 河合に誘われた韓国料理の店で、暢子は焼肉をサンチュで包みながら浮かない顔をした。

「うん、理子がね。失恋しそうなの…すごく好きだった人なんだよ」

「へえ、元気そうだったのに、大量の洗濯物干してたよ」

 河合の部屋からは共同の物干し場がよく見えた。張り切って帰った来た理子の顔を思い浮かべると切なくなった。

「そうなんだ。仕事の話してた。楽しそうだった。なのに私が余計なこと言って水差したんだ。だけど言わないでいるのも辛い気がしてね」

 暢子は思い切りため息をついた。一方的に思うだけの片思いも良いものだ。心の支えにはなる。理子はあんなに強い女だったのに…

「お前でも落ち込むんだな」

 河合は暢子のことを相当丈夫な女だと思っているらしい。

「自分の事は平気なんだけどね。頑張ればなんとかなるでしょう。人のことはそうは行かない。自分が頑張っても空振りなだけ」

「そうだな。でも、落ち込んでても仕方ない。美味しいもん食べて理子の分も頑張ろうぜ」

 それは無理だろうと思う河合の発言も、告白された弱みか暢子にはご利益がありそうだった。

「そうだね。そうしよう」

 河合に丸め込まれてホッと出来る。そんな感触が今日はありがたかった。暢子の頑張りを今まで見ててくれて人がいる。そんな気持ちになった。

「ここの焼肉上手いだろう。一度暢子に食べさせてやりたかったんだ」

 屈託のない河合の顔は暢子に安らぎを与えた。

「うん…美味しい」

 食の進まない暢子だったが嬉しかった。


「ねえ、どうして皆んなで飲んだり食べたりしてる時、あんたは中に入らないの?」

「ん?」

「ほら、大抵の事避けて通ってるでしょ」

 ズケズケと河合に説教できるのも暢子だけだった。

「人数の多いの苦手なんだ。座り心地が悪くて駄目だ。何も言うことないし頭ん中がショートして、ずっと何で此処にいなくちゃいけないのかなあって考えていたりする」

 河合の人間嫌いは多分に面倒くさがりなところから来ている。

「どうしても出ないといけないものもあるでしょう」

「そういう時は腹据えて我慢する」

 力を入れてそう言う河合が可笑しい。

「それって癖だよ。そうやって苦手みたいに考えたりするの」

「癖なの?」

「だって何かあるとは思えないもん。河合人もいいし、優しいし、負のオーラを感じない」

 暢子は確信を持ってそう言った。

「なんかくすぐったいね。そんな風に言われると」

「ほんとはもっと気難しい奴かと思っていたんだ。でも、それは違う気がする」

「そりゃあ暢子といて嫌だと思ったことないもんさ」

 そういうことを平気で堂々と言われると拍子抜けするも、河合の言葉には説得力があった。

「あ、そういう事か…だけど、人間基本的にはみんな一緒だよ。私の前は良くて他の人は駄目ってことはないと思うよ」

「そうかな…」

「そうだよ。素直に生きる。これ生きる基本」

「暢子らしいな」

「うん、でも今日はビックリした。河合からも色々言われたけど、他人事みたいに聞いちゃったよ。河合も冷静だったし」

「お前も冷静だったな。もっと派手なリアクションするかと思ったよ」

「自分の事だと大騒ぎ出来ない。実感もなくてさ、河合も言ったけど考えてみればずっと一緒だったし、もう空気みたいだったんだね。でもご飯も一緒に食べに行けるなんて良い日だったな。あ、理子にお土産買っていこうね。私、ご飯作るとか言ったんだ。元気つけてやらないと」

 暢子が元気を取り戻すと、

「俺たちずっと一緒にいられるかな〜」

「え?」

 今度は突然河合がしんみり話し出し、さっきまでの冗談めいた雰囲気が何処かに行ってしまった。暢子は咄嗟に返事ができなくて笑って誤魔化すしかなかった。


 入学が決まって、高校の美術の先生にアパートの事を聞かされた。

「あんまりボロいからびっくりするぞ」

 と言われ、かなり覚悟してやって来た。

 薄汚れたアパートには、すでに二級上の先輩が何人か住んでいて、このアパートは芸大専門の安アパートだとカラカラ笑っていた。二級上と言っても、就職止めて大学に入り直した人とか浪人した苦学生とかで歳は30に近いのもいる。18の暢子にしてみたら鬼の住む館のような佇まいだった。

 いやあこれはちょっと…と足を踏み入れようかどうしようか悩んでいるところへ荷物を抱えた河合がやって来た。若い!同級生なのかと思ったらホッとした。本当にそれは鬼の館に鬼退治にやって来た桃太郎くらい…安心感があった。

 河合は音楽部ピアノ科でそれ以来ずっと暢子の側でピアノを弾いてくれていた。

「ねえ河合、何であのアパートに来ることになったの?」

「ん、学校の先生の紹介。ホールにグランドピアノあるだろう。毎日ピアノ弾けるとこが良いなと思って、そう言ったらあのアパート紹介してくれたんだ。あのピアノ古いけど良いピアノだぜ。手入れも行き届いてるし、後は雑事。俺は男だから、凄いのいても怖くなかったし、お前ビビってたよな〜両手に荷物抱えて、すごい顔して、初対面だぜあれ」

 河合はビビンバを描き込みながら印象深く初めて会った時の事を話した。

「…同じこと思い出してたのかな、今、あの時の事。覚悟無かったな〜今から前人未到の洞窟に入ります!って感じ」

 すると河合は冷静に。

「お前下見に来なかったの?」

「下見?」

「普通は一度くらい来るでしょう。4年間暮らすかも知れないところだよ」

 河合は余裕でそう言った。

「下見か〜考えても見なかったな〜」

 暢子を憐れむように眺めながらも、

「だけど、下見に来てたら。あの運命の出会いは無かったな〜」

 と、河合は言った。

「運命の出会い。大袈裟でいいね。そういう人がこの世界にいるって」

「俺、あんまり人の事考えるの得意じゃなくてさ、一人になりたいってすぐ思うんだ。なのにお前とはずっと一緒にいてもそう思わないのが不思議だよな。お前のこと考えるのは嫌いじゃない。そんな風に思える出会いは奇跡だ。まず出会えるもんじゃない」

 感慨深げに河合はそう言った。

「そう…」

 そう言う河合の話し言葉は、河合のピアノの音色のように暢子の心にスッーと入ってくる。ずっと今までもこんな風に側で話しててくれたような、そう言えばそうだったような感覚だった。

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