第8話 三者懇談

 悟の中学はアパートから歩いて20分。こんもりした木立に囲まれた高台にあった。

 東京は都会と思っている人も多いが、緑もまた多いところで、学校や住宅地には樹齢何百年という胴回りの太い古木が何本も立ち並び立派な並木を作っていた。

「なんて綺麗な中学なんだろう。想像してたこじんまりとした木造のなんて懐かしさは何処にも無いじゃない。都会の真ん中の中学ってこんなもんなのか」

 教室は何処もテレビやOHPが設置されて透明のケースに格納されている。もしやあれは?エアコン。信じられない。

 グッショリと汗をかきながら蝉の声に暑苦しさを感じた自分の中学時代に一瞬タイムスリップした暢子は、あっちにもこっちにもと、物珍しくてキョロキョロ見学して回った。

「全室冷暖房付きか、設備がまるっきり違うんだから今の子が頭良いのは当たり前だわ」

 とぼやきながら、目的の美術室を探した。一階の職員室の脇。学校が変わっても美術室の場所は見当がつく暢子だった。美術室を探し当てると、教室の前に男の子が待っていた。

「こんにちは」

 と暢子が頭を下げると、

「あ、あの時ジョギングしてた…」

 と腰を浮かした。

 さすがに若い。会ったのほんの一瞬だったのに、暢子の顔をちゃんと憶えていた。

「あ、憶えてる?今日はお父さんの代打」

 なるべく明るく軽い声でそう言った。

「僕、一人でも良かったのに」

 と言いながらも迷惑って感じでもない。暢子は笑って隣に腰を下ろした。

「お父さん、学校の様子を知りたいって言ってたから」

「それで」

 納得した顔で何度も頷いた。

 暢子は緊張が解けて真面目そうな子にホッとしていた。小柄な可愛い男の子という感じの中学生だった。

「お父さんが教えてるの?」

「ううん、私は彫刻。解る?木とか石膏とか彫るの。それを専攻してるから、油絵はやらないんだ。友達は習ってるよ」

「お父さん絵、上手い?」

 少々ストレートなタメ口に閉口しながらも、それならこっちもと気軽に話した。

「そりゃあ芸大の教授だよ。上手くなかったら困るよ」

「はは」

 息子はカラッと笑って暢子の話を聞いていた。

 時計を見ると4時を回っていたが、暢子は自分の番が回ってこないのを良いことに学校の話や今時の中学生の実態を悟から仕入れていた。

 前の人が終わって教室から出てきた。それでもまだ物足りなそうに、粘り強く話すお母さんに困ったようにしているやり取りを伏し目がちに聞いていた。

「あ、では、山崎さん。お待たせしました。遅くなって申し訳ないです。山崎さんは最後ですからゆっくり色々聞いて下さい」

 と声がかかった。あ、そうそう今日は山崎さんなのよと暢子は自分に暗示をかけて立ち上がった。

「ちょっと暗くなってきましたね。また、一雨来るのかな」

 と先生は壁のスイッチを付けて席につこうとした。この声、あのまめまめしい動き。確かに似ている。誰だっけ。

「あ、下里研究所」

「え!」

 そうじゃない。

「下里じゃなかった。誰だったかな?寄る波、年波、月並み…」

 名前が浮かばない。入り口のフレームを確認して、

「そうそう、榎並さんでしたよね」

 こんなところでそんな風に自分の名を呼ぶその人は?と向こうも思ったらしい。暢子をマジマジと眺め…

「え、山崎さんじゃなくて…如月さん!」

 今度は章介が驚く番だった。

「中学の美術の先生してるんですか。ビックリしました」

「こっちこそビックリです」

 悟は二人の顔を見比べて何が何だか解らない顔をした。

「あ、あの、ビックリさせちゃって、ごめんなさい。三者懇談を始めて下さい」

 そう言われても榎並の驚きは収まらない。

「あの、本当は山崎さん?お二人の関係は…」

 暢子は慌てて顔の前で両手を振って強く否定した。

「この子のお父さん、うちの芸大の教授で今日は代理を頼まれたんです。私生徒なんです。直接は教えてもらってないんですけど。頼まれると断れない性格なもんで、特に関係はないんです」

「そうですか、あがちゃうな何か…」

「そんな普通にやって下さい」

 榎並は照れて真っ赤になりながら三者懇談を始めた。今日はこうやってちゃんと服を着ているんだから何も照れることはない。二人のトンチンカンな会話を黙って聞いている悟にかいつまんで関係を説明した。

 さすがに裸婦モデルとは言いづらく『デッサンのモデルをしている』とだけ話した。笑われながらも結構気に入られて楽しい三者懇談となった。

「悟君頭いいんだね。先生の話聞いてビックリしちゃったよ」

「僕、体が小さいから。何か良いところもないとね。でも家では勉強しないよ」

「天才!頭の良い子って大抵そう言うんだよね。絵は描かないの?」

「そういうのは駄目。先生も言ってたでしょ。なんでなのかなって」

「そうだよね。環境良いわけよ。なんたって教授の息子なんだから」

「でも、家にいる時間は短いし、絵を描く姿もあんまり見たことないし」

「あ、なるほど」

 悟が照れくさそうにうつむくと、刈り上げた襟足がいっそう幼く見えた。

 山崎のプライベートを詮索する気はなかったが、明るくて幼く見える悟の、屈託なく話す様子から察すると家庭での優しい父親像が感じられた。

「あ、此処です」

 夕闇で薄暗くなりかけた団地の路地を少し遠回りして教授の家を教えてもらいがてら歩いた。

 区画の大きな見応えのある屋敷の中に立ち並ぶ立派な門構えの家。庭には手入れの行き届いた沢山の木が植わっていた。

「へえ、良い家だね。ジョキングで近くまで来るのにこんなに落ち着いた住宅街だなんて知らなかったな。あ、お父さんによろしく言っておいて、今日は楽しかった」

「ありがとうございました。また遊びに来て下さい」

 手を振りながら門を閉めると、悟は明かりの点いてない家に自分で鍵を開けて入っていった。

「うん、またね」

 楽しかったけど慣れない母親役に肩が凝った。

 突然目の前に現れた中学の美術の教員だという榎並にも驚かされたけれど、中2の悟が可愛くて、無事大役を果たせたことに満足していた。今時の中学生は、と、とかく言うけれど素顔は違うのかなあと思う。

 素直で明るかった。そう思うたび悟の家の灯りが点いていなかったことが思い浮かんだ。理子の言うように奥さんのいない二人暮らしなのかと、重い気持ちになった。

 裏の雑木林から竹林を抜けてアパートに帰ると、しばらく留守にしていた理子が帰っていた。

「理子〜」

「暢子ただいま〜」

「おかえり!予定より伸びたじゃない。いつ帰って来るか待ち遠しかったよ」

 理子は陽に焼けて健康そうに見えた。

「私のいない間に何か変わったことあった」

「あ〜」

 そりゃあもういっぱい、何から話そうかと迷ってしまうほど。照れるけど、河合から告白らしきものもされたし…

「今度ね、今のビルの壁画制作の人が東京でも仕事するんだって」

「え?」

「ん?」

「ああ、それから?」

「うんそれで手伝わせてもらおうと思って頼んできた」

「そう、やるね」

 理子は本当に大きな絵を描きたいとずっと言っていた。着実に一歩一歩地固めをして進んでいる。理子のいない間に人生を揺るがす色んな事があったけど、理子のやる気の前にはみんな霞んでしまう。

 でも、一つだけ、これだけは話しておこう。これ以上隠していると説明するのがややこしくなる。

「理子、山崎先生子供いるんだよ。中三の男の子」

「うっそーそんなの信じられない。裏切りよ」

「そんな、裏切りたって理子が勝手に独身ってそう思い込んでただけでしょ」

「それ、噂なの」

「ううん、噂じゃないって事実だよ。事実」

「なんで暢子が確信もってるわけ?」

 そう詰め寄られて、ついに白状する時が来てしまった。

「だって…今までその子と一緒にいたんだよ」

「えー?」

 理子の顔色が変わる。

「ごめんそう来ると思ったんだよね。話せば長いんだけど、今日さ、その子の三者懇談があってね。ほら、先生と本人と親と三人で進路決めるやつ。それを山崎教授に頼まれて、今、学校に行ってきたとこ」

 しどろもどろになりながら言いたいだけのことは一気に吐き出した。

「なんで暢子が?」

「そんな泣きそうな顔しないでよ。たまたま先生と悟君。その子悟君ていうんだけど。二人が一緒のところをジョギングの時に会っちゃって…顔知ってるから頼めるかって言われたのよ。理子いないし相談できないし、理子の旅の話をしに行った時強引に頼まれたんだってば」

 理子の顔がだんだん曇っていく、やっぱり言わないほうが良かった?あんなに張り切ってたのに…

「……」

「理子…」

 いきなりサッパリした顔で理子が言った。

「いいよ仕方ないもん」

「本当〜良かった。私先生誘惑してないからね。今度絶対、悟君、理子にも紹介するよ」

「着替えてくるわ」

「あ、そう、そうだね。夕食なに食べる」

「なんでも」

 気の抜けた理子に何を話しても今は後の祭りだった。

「あ、そう」

 なんか素っ気ない。だけどそれも仕方ないと思った。教授のことをあんなに好きだった理子だから。暢子はため息をつきながら大仕事を果たした。

「ふ〜」

 理子のいない間に色々あったけれど一つ言うのが精一杯だった。

 予想はしていたが理子のガッカリする姿は暢子もヘコませた。後はしばらく様子見するしかない。

 疲れた体をソファーにもたせて暫しの休憩。頭の中には悟の幼い顔や教授の顔、理子の寂しそうな顔が思い出された。言わなければよかったかと後悔しながら、それでもこれ以上理子が傷つくのは嫌だと考えたり、暢子は暢子で辛かった。

 もともと人に自分の気持ちを見せたがらない理子が、断腸の思いで自分の恋について話したに違いない。それなのに突然わけのわからない情報を暢子の口から聞かされるなんて…耐えられないことだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る