第6話 気がかりな出来事

 二日目の昼過ぎ。暢子はアトリエで60センチほどの裸婦像の前にうなりながら立っていた。そこに在るのはまた一つ増えた自分の分身。もう少し彫ろうかここで止めようか決めかねていた。

 色んな角度から眺めた後、どうしても気になる髪の毛の部分に少し手を加えて作品を仕上げると、風呂敷に包み梱包材の入った旅行用の鞄に詰め込んで学校に向かった。

 仕上がった作品を引きずって歩くこの瞬間ほど誇らしい気持ちはない。自然に大股になって颯爽と進んでいく。成果物のある仕事に携わる者の束の間の喜び。理子のようにこの道で生きていきたいというような強烈な意志は無かったが、暢子はただものを造っている時が楽しかった。

 昼からのバイトの前に彫塑室に寄って、作品を出した後、久しぶりにクラスメイト2.3人と集まってお茶を飲んだ。作品作りが始まると合う機会が少なくなる。それぞれの作風に合わせて、山に籠って仏像を彫っている者がいたり、先生について工房に入ったきりの学生もいた。暢子のように居心地の良い仕事場があるとそこを出ることがない。先生に顔を見せたり、連絡を取ったりしていても、こうして皆んなの顔が揃うのは嬉しい。久々に個性的な作品に触れて、彫刻談義に花が咲いた。

 当然暢子のモデルの話も刺し身のつまのように毎回登場する。でも、解ってもらえない理子に話すのともまた違う。暢子の突拍子もない武勇伝は、仲間の語り草でもあるらしい。

 馬鹿にして笑いながらもその行動には敬意を払おうと芸術家一流の達観を込めての冷やかしだった。

 昼を回り仲間が残っている教室に未練を残しながら出ていくと暢子は山崎の部屋を探した。理子の頼みとはいえわざわざ伝えに来るのもどうかと思ったが、忘れてもいけない。山崎のアトリエの前で会うと、まずは壁画を見に行っている理子の話をした。理子が壁画に興味があるのを知らなかったのか初めは山崎も驚いていた。

 実はこの時の説明は不十分で、全く理子の真意は伝わっていなかった。

 暢子の頭の中にあったのは、例の教会なんかにあるフレスコ画で、理子はその壁画を尋ねて旅に出たと暢子も山崎も思っていた。しかし、それは理子の追い求めていた壁画とは似ても似つかぬ世界のものだった。山崎も勘違いしたままその気になって熱心に話してくれたが、バイトの時間が気になる暢子は、早めに切り上げようと話の腰を折った。

 しかし、別れ際山崎は歯切れ悪く暢子を呼び止め、

「あの、こんなことを学生に頼むのは何なんだが…思いっきって言ってみよう」

 と、言い出した。

「来週…子供の三者面談があるんです。あ、うちの子今三年生でそろそろ進路も決めてやらないといけないんだけど、どうしてもその日抜けられない用があって、君、家も近かったし、子供の顔覚えてませんか?」

 と、教授の顔ではなく、父親の顔で暢子にそう言った。

「え??」

 意外な話に暢子はすぐには理解できなかった。

「僕の代わりに学校へ行って話を聞いてきてくれないかな。良かったらなんだけど、他に子供の顔を知ってる人がいないから頼める人もいなくて…突然で申し訳ない」

「わ、私がですか?」

 三者懇談に家族でもない暢子が行って役に立つとも思えないものの、山崎の熱意にひるみながら断れなくて困っていた。

「チョット待って、学校からの通信持ってきます」

「え…」

 まだ行くと返事もしていないのに、山崎はバタバタと部屋に入っていった。

そして…通信を暢子に渡すと、助かったという顔をして頭を下げた。

「また、食事でもご馳走します」

「いや、そんな…」

 それは一方的な話だが嬉しそうな顔だった。

 やはり親心ってやつか、とついほだされて、OKともなんとも曖昧な態度を取ってしまう暢子だった。

 手元に残った通信…

 まあお姉さんのつもりで行くかっと気を取り直して腹を括ったものの、一抹の不安が心に残った。


「暢子!何、今日の夕飯?」

 駅前のマーケットで買い物をしていると美緒に会った。

「あ、美緒。今日はバイトは?」

「うん、ちよっと風邪気味なの。声の調子がイマイチで…

 幸太夫の友達でラップの上手いグループがあってお店の雰囲気には合わないんだけど、今日明日やってみるって言ってくれて」

「そうか、気をつけないと。美声は大事。ねえ今晩何食べたい?」

 食事当番の暢子は今日のおかずを何にしようかと迷っていた。

「そうね…ねえ暢子。この頃ちょっと安朗のことが気になるの」

 パプリカを手に取り香りを確かめながら美緒が言った。

「え?」

 そんなことを考えても見なかった暢子は美緒の方に向き直った。

「気になるって何が?」

「元気がないっていうか、ちょっと上の空でね。気になってるの」

「ふうん」

「幸太夫が言うのよ。何かあったのかなあって、聞いてない」

 野菜に伸ばす手を止めて暢子も考え込んだ。

「ごめん私はどうもそういうことに鈍くて、突然聞かされて驚くことばかり」

 正直、細かいことに気が回らない暢子はいつもなにかある度に最後に知ることになってみんなに済まないと思う。

「でも…なんでも気づかれても煙たいものよ。そこいくと暢子は程よい距離をとってるでしょ。皆んな頼りにしてるんだから」

 そういう暢子を慰めるように暢子の肩をポンポンと叩いた。

「何も考えてないから言いやすいだけよ。美緒も理子もちゃんとしてるから」

 美緒は優しく笑って、

「そこが暢子の良いところ。安朗の様子気にしてやって」

 暢子は少し頭が痛い気がした。色んな事が起こって周りが静かに波立っている。それも驚くことばかりで自分には何もしてあげられないことのほうが多かった。

「安朗が深刻なこと考えたりするのかな。私の前ではいつも元気そうだけど」

 暢子にとって安朗は弟のようなもので難しい話や、悩み事をするという感じではなかった。

「で、何が食べたい?」

 あくまでそう聞く暢子に、美緒が悩ましい顔をして野菜に手を伸ばした。

「もやしって安いよね。何でこんな値段で作れるんだろう。もやしの野菜炒めしない。あと人参とピーマン。あったっけ」

 ようやく美緒が夕食の相談に乗ってくれて暢子はホッとした。


 壁画を見に行くと言っていた理子は、その頃静岡に行っていた。大きな壁画と聞いて、想像もつかないながら教会の絵とかフレスコ画とか単純に考えていた暢子だけど、理子が行っていたのは、なんと、駅前の建設中の高層ビルで、かなり大きい壁画を制作している建築現場っだった。

 理子の憧れる大きな絵と言うのがビル一面に描かれる壁画のことと、ようやく解ってたまげている暢子に、

『そのうち60階建てのビル一面にあんたの裸婦、ドーンと描いてやるって」

 と、度肝を抜くような近況報告があったのがその日の夜のことだった。

 夢にまで見た壁画制作の現場が余程嬉しかったのか、はしゃいであれこれ話す理子の声は活き活きしていた。その話題も尽きた後で一呼吸置き、トーンの下がった声で、

「先生に言っておいてくれた」

 と言う問いかけに、適当に答えた暢子はその後のことは込み入ってるし、せっかく理子が張り切っているのにとても言い出せない。今日のところはと黙ってしまった。

 三者面談これは滅入る。考えるのもだんだん面倒くさくなってきて、

「ま、いいか」

 と考えるのを止めて眠った。

 風の音が窓の外で響いている。このところ日中は晴れて夕方から天気が崩れ夜になると風が強くなった。暢子は何度も寝返りをうち眠れない夜を過ごしながらマーケットでの美緒の話を思い出していた。


 次の日、キャンパスの中で安朗を見かけた。家で見る安朗とは違いずいぶんと大人びて見えた。美緒から聞いたことが気になった暢子は、しばらく黙って話し込む安朗を眺めていた。安朗は重たそうなチェロを体の横に立て掛けて楽しそうに友達と笑っていた。見た感じは元気そうでこれと言って気になることはなかった。

「暢子久しぶり、この頃どうしてるの?」

 建築の吉野に声をかけられた。

「ああ、こんにちは。そっちこそ元気にしてる?」

 安朗のことを目で追いながら適当に挨拶した。

「うん、卒論の準備に追われてる。理子最近会わないけど様子聞く人もいなくて」

「そっか理子ね」

 大きなビルに絵を描きたいと思っている理子だから建築の勉強もしていたんだろう。今思えば理子らしい。吉野とは製図の講義を一緒にとっていると聞いている。随分前にアパートに連れてきたこともあった。

「理子は大きな壁画が描きたくてそれに没頭してる。今アパートにもいないの」

「アパートにいないの」

「私と違って理子は能動的だから。とにかく行動。良いよね」

「そうか…私は父さんの設計事務所継がないといけないから選択の余地ないし、理子みたいに別の形で建築やる知恵もないし、意欲もないから」

 吉野はそう言って理子のことを羨ましがった。

「理子になんかことづけある?」

「ううん顔見て話したいからまたにする」

「またアパートにおいでよ。今も神田の家にいるの?」

「ううん家は出たの。前にアパートに行かせてもらって直ぐ。卒業したら嫌でも顔合わすじゃない。家族と…だからしばらくは離れていたいなと思って」

 贅沢だけど若い頃はそう思ってしまう。家を出てもう3年になる暢子は、親元から通うのも最近良いなと思う。

「そうか、じゃあ理子によろしく言っておくよ」

「あ、じゃあ」

 吉野は少し離れたところで待っていたボーイフレンドのところへ駆け寄っていった。学祭のダンスパーティーでひときわ目立ったドレスを着て、派手に振る舞っていた吉野のことを思い出した。

 安朗を探すともうその場所にはいなかった。色々考えるのが苦手な暢子は、最近の出来事に心がついていけないでいた。悩みを話すべき理子もいない。

 皆んなは頼もしいみたいに言うけど、その効力も歳とともに衰えていくものだろうかと恨めしい気持ちになった。

 アパートまでのゆるい上り坂が今日は遠く感じた。

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