第5話 でっかい壁画
「おはよう暢子!学校は?」
次の日の朝、暢子は学校に行く時間になっても着替えず、パジャマでボーッとしていた。理子は早々と身支度を整えて扉を半分開けて部屋を覗いた。
「しばらく制作。こっちやらないと時間が無くなるから」
「な〜んだ。私二、三日出掛けてこようと思って」
「え〜何処に行くの?」
眠気眼の暢子の反応は鈍い。
「壁画巡り。気分転換したくてあっちこっち行ってくるよ。大きいの描きたいし」
いつもながら理子のフットワークは軽い。
「そうか〜何かあったら連絡しなよ。あんまりナシノツブテだと心配だから」
「うん、わかった。じゃあ行ってくるね。あ、学校行くことあったら山崎に声かけといて」
「わかったよ〜しかし壁画が何処に行ったら見れるか知ってるのか〜さすがだね」
布団の中から理子を見送った後、思い切って起き上がり、下のホールに降りていった。台所では幸太夫が勇ましくフライパンを振っていた。
「何してるの?」
「朝ごはん。あるもん刻んでチャーハンでも作ろうかと思って。お前も食べるか?夕べ遅かったんだろ」
「うん、切のいいところがなかなか見つからなくてサ」
伸びをしながら深呼吸をする。体を目醒めさせる良い匂い。玉ねぎを炒める香ばしい香りが部屋中に充満していた。
暢子は冷蔵庫から豆乳を取り出し、コップに注いだ。
「俺さ、今度、脚本書いてみようかと思ってるんだ」
「脚本?」
「うん、それ程自信は無いけどな、何事も勉強かなと思って。友達の小さな劇団。面白い連中なんだ。美緒の高校の時の同級生」
劇団の名前も聞いたけど忘れてしまったらしい。
「脚本、そっか、良いじゃない。脚本って何枚も書くんでしょ。前に本で見たことあるけど凄いよね。動きとか、情景とか色んな事。事細かく書いてあってさ。どんなテーマにするの?」
そう言うと幸太夫は得意げに、
「未来的なやつ。小道具に凝ってさ」
「へ〜お金かかっても良いの」
「少し位はな」
幸太夫は器用だから。なんでもやれるよ。と、暢子は思った。
「俺は練習用の、ほら舞台練習用の脚本しか見たこと無いけどな、後、高校の時自分で書いたの。あれ脚本になってたのかなあ。って感じ」
自慢するわけでもなく自然体でそういう幸太夫が爽やかだった。
「いやあ楽しみ楽しみ。出来たら見せてね」
「よし、出来たぞ。食べろお前も。野菜たくさん入れたからな」
「うん、ありがとう。いいね、このアパートは食事の作れる人いっぱいいてさ」
「俺、美緒起こしてくるから」
「あ、はいはい。そうそう美緒に一番に食べさせてやらないとね。幸太夫の大切な人〜」
幸太夫と美緒は高校の時からもう六年も付き合っている。駅前のライブハウスで美緒から紹介された時、幸太夫は浪人生だった。むさ苦しい姿でドラムを叩く幸太夫は友達とバンドを組んでいた。そのバンドで歌う美緒のリズム&ブルースは聴き応えがある。その時からずっと二人は仲が良かった。
「そう言えばあいつはどうしているんだろう…河合も夕べは遅くまでピアノを弾いてたな〜」
河合はアパートの住人が食事をしたりお酒を飲んだりしても姿を見せなかった。終わった頃ふっと現れたり、騒いでいる皆んなの横を関係ないって顔で通り過ぎたり、周りのことに関心を示さなかった。
だけど、皆んなの前で自分を表現しない河合も優しいことはわかっていた。
悲しいことがあったり辛いことがあったりすると、河合の弾くピアノの音は心に沁みていったから…
誰も口に出さないけどそうだった。長い下宿生活の間には息の詰まることや人に言えない思いはたくさんあるものだ。そういうものが可愛のピアノに包まれて、胸の中で噛み締めていくうちに、染み込んで自分の一部になっていく。そんな感覚を暢子は何度も味わっていた。
朝食がすんだ頃になって、案の定、河合が起きてきた。
「コーヒー飲む?」
と、暢子が聞くと、
「ああ…」
と、気がなさそうに答えて、新聞を読んでいた。
「どうしたの?今日は一段と浮かない顔してるね」
「どういう意味。一段とって」
不機嫌な声が帰ってきた。こういう時の河合は扱いにくい。
「嗚呼、いつもそういう顔してるって、私が勝手に思ってるから」
河合の剣幕に暢子が焦りながら、きまり悪くそう答えた。
「印象悪いんだな。俺って」
気にする河合に今度は暢子が戸惑った顔をした。
「そんなことないよ。うん、良い奴だと思ってるよ」
と、気休めみたいに安直なことを言った。
『無理すんなよ…」
ヘラっと笑いながら、脚を組み直した。
暢子はコーヒーを河合の前に置くと、向かい側に座って素直な気持ちを話した。
「昨日だって遅くまで付き合ってくれたじゃない。私の仕事って単純だから、心強いよ。あ、河合も起きてるなと思うとさ。音楽って良いよね。離れてても同じ空間にいる安心感があって」
なのに河合はひねた顔で笑って、
「まあ、素直にありがとうと言っておくか、コーヒー淹れてもらったし。皆んな出掛けたの?」
と言った。
「うん、理子はしばらく旅行だって。壁画巡りとか言ってたよ」
「壁画なんて日本にあるのか?」
と河合も同意見。
「ね、やっぱりそう思う。良かった。壁画なんて見当つかないの私だけじゃなくて。教会とかに行ってるのかなぁ…とにかく理子は大きな壁画を描きたいって、それが夢だからね。河合は今日は学校は?」
「俺は昼から行くよ。今日は課題曲の試験だ」
「そっか、じゃ練習しなよ。私も始めようかな。コーヒーもういい」
「ああ、さあ、やるかな」
素直なのか何を考えているか、可愛のことはよくわからない。
でも、一度ピアノの前に座れば周りの景色まで変わってしまうこの音…それを毎日欠かさない地道な努力。性格はともかく、そんな河合の後ろ姿が暢子は好きだった。
木漏れ日の柔らかさと、河合のピアノの音はどちらも心地よくて似ていた。
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