第4話 山崎教授の秘密

 毎日、明るいうちに学校から帰ると、暢子は自分の決めたコースをジョギングするのを日課にしていた。アパートの周りは自然が豊かで、池の周りを回る水辺コースやちょっとキツめの坂を上がる神社のコース、アパートの裏から竹林を抜ける団地コースとその日の気分に合わせて回れるところを増やしていった。

 はじめはシンドイと思ったジョギングも慣れるとだんだん気持ち良くなった。

 体質からか炭水化物が合わない暢子は、白いご飯やうどんを口にするとお腹が膨らんでしまうから、あまり食べないようにしている。毎日沢山の野菜や豆類を中心とした食生活のために、アパートの皆んなとの自炊が多く、外食することはあまりないのが幸いして、お酒の好きな暢子もスタイルが崩れることがなかった。

 今では暢子の無理な注文も大抵は応じてくれる気さくな仲間と共同で借りているアパートは、築50年のかなり古い木造だった。西側に大きな竹林があって鬱蒼と茂っている。

 芸大の薄暗い寝ぐらのような場所を好みそうな連中がいつも何人か集まる。友達の理子、駅前のライブハウスで歌っている声楽科の美緒、美緒のバイト友達の幸太夫、幸太夫の後輩のセリスト安朗。

 中でも安朗は繊細で楽器扱いも丁寧で才能が感じられた。このアパートには掃き溜めに鶴…だと、常日頃暢子は一目置いている。自分のことはわからなくても光る才能には目が行ってしまうものだ。

 安朗以外はどっこいどっこいの落ちこぼれた芸大生だと自虐的に笑っていた。


「良いですね。このアパート。周りの家からも隔絶されててうるさくしても叱られそうにないし、大声で歌っても迷惑がる人いないし…私ピアノの練習にいつも気を使ってしまうんです」

 一年の芦田裕美がこの頃安朗に連れられてこのアパートに出入りするようになった。福島出身のピアノ科のマドンナ。その可愛さは一時期、別校舎にある他の学部にも聞こえるほど騒がれたものだった。

「雰囲気良いでしょ。あちこち暗いから小汚くならないように、物は積まないようにしてるんだよ。なんせ古いから。ここならゴミも裏で焼けるし」

「この頃ゴミ焼けるとこほんとに無くなったよね」

 美緒は掃除が得意で酒が入ると愚痴りながらそこら中を片付け出す。酔って腰が軽くなる人種を見たことのない暢子は、美緒の不思議な癖に最初は驚いたが、その手際良さは真底笑えた。酒が進む度にボルテージが上がっていく、その様子を楽しんで眺める暢子だった。

 飲んでいても部屋が散らからない有り難い特質。

「所帯じみた話だけど、共同生活をしていると一人くらい綺麗好きがいないと最悪でしょ。美緒が綺麗好きだから助かってる。幸太夫と安朗なんか、美緒いなかったら今頃ゴミの中に埋もれてるよ」

 理子も美緒のありがたさには感謝している。

「暢子も飲みだすと動けなくなって、それはもう大変」

「え?暢子さん酒癖悪いんですか」

「理子、バラさないでよ。ねえ、裕美ちゃんも此処へ引っ越してきたら、あ、河合にピアノ習うと良いよ。由美ちゃん同じ科でしょ。あいつ付き合い悪いからあんまり顔見せないけど、ピアノは凄く上手い。私いつも聞いてるから絶対保証する」

「あ、あ、はい」

 そう答えながら顔が赤らむ。それを見て暢子は思う。

「良いよな〜裕美ちゃん。若いな〜一年生だし、私は絶対河合とお似合いだと思うんだ」

 暢子の心無い発言に安朗が反応して顔がゆがむ。

「安朗、何むくれてるのよ」

「いや、別に…」

 安朗の気持ちも、裕美の気持ちも恋愛音痴の暢子や理子にはとんとわからない。

「さぁて、私ジョキングしてくるわ」

「よくやるね毎日」

 棘のある言い方は理子。

「身体だけは鍛えとかないと、恥ずかしくて脱げなくなるからね」

 あえてそう胸を張る暢子が眩しい。

「いいな〜暢子さん」

 よだれの垂れそうな安朗に理子がビシッと言う。

「何言ってるのよ安朗は」

 笑って席を立つとそのまま部屋に上がり、着替えてタオルを引っ掛けた暢子が玄関に向かう。アパートのドアを開けると、一人だけアパートの住人と交わらず独身独歩を貫いている河合が向こうから歩いてくる。なるべく距離を縮めようとする暢子がすれ違いざまに声をかける。

「おかえり」

「ああ、今日も走るの?」

 いつもの静かな落ち着いた声が帰ってきた。

「うん、あ、裕美ちゃん来てるよ。たまにはピアノ聞かせてやったら」

「なんで俺が?」

「なんでって…照れなくてもいいよ。じゃあね」

「お!」

 河合は裕美ちゃんのことが好きだと、暢子はずっとそう思っていた。

 でも、シャイな河合はそんなこと誰にも言わないし、裕美ちゃんに打ち明けるはずもないか…と、勝手にそう思っていた。

 暢子にとって河合はこのアパートの住人として一緒に戦った同志。心の支えだった。だからといって河合がなにかしてくれたわけじゃない。でも存在そのものが同志だった。


 今日の風はいつもと違って生暖かい。なにか降ってきそうな嫌な予感がする。

 暢子は並木通りを抜けて、公園を半分周り、信号からバス通りに折れて一番近いコースで帰り道へ急いだ。雨風に急かされてスピードを上げた時、前から黒い二つの塊。親子連れが歩いて来るのが見えた。

 コンビニの買い物袋をぶら下げてなんとなく重たげな足どり。目を避けてうつむきながら体をかわした瞬間、歩道のくぼみに足を取られて思わず男と目が合った。

 男はどっかで見た顔…

「あれぇ、山崎教授…。うちの学校の山崎教授じゃ無いですか」

 忘れず筈のない理子の思い人。

「え?君は…や、如月さん」

 授業を持ってもらったことのない教授が暢子の名前を知っていた。

「あ、ご存知…」

「そりゃあ有名…コホッ」

 と何か言おうとして途中で言葉を遮った。

「奇遇ですね。こんなところで教授にお会いするなんて。教授の家もこの辺なんですか?」

 暢子の興味津々な顔を避けながら教授が答えた。

「ま、まあそんなところです」

「子供さんですか?へえ独身って聞いてたけど…」

 山崎に熱を上げている理子の顔が浮かんだ。

「こんにちは」

 制服を着た小柄な男の子が礼儀正しく挨拶をした。

「あ、こんにちは。じゃ失礼します」

 理子の憧れの山崎に、こんなところで会おうとは、しかも子連れ。

 あの感じは親子に違いない。独身っていうのはバツイチっていうことだったんだろうか…二人で買い物袋下げてたし、どことなく侘びしい雰囲気。離婚したのかなと、走りながら勝手に想像を膨らましていた。

 独身の40男を不気味に思う暢子にすればこっちの方が望ましい。しかし理子にすればこれはかなりデリケートな問題。はっきりしたことが判るまで黙っておこうと思った。

「あ!」

 ついに大粒の雨が頭に当たる。両手を頭にかざしながらつまらないことを思い出す。

 子供の頃、一粒の雨で大騒ぎした。その度に『その日一番最初の雨は馬鹿に当たる』と笑われた。雨だ雨だと騒げばそう言われるのが解っていても、騒がないではいられない、馬鹿な子供だった自分の事を…

 急に雨脚が強くなって更にスピードを上げた。冬の雨は冷たくて髪から雫が落ちる頃には、歯がガチガチと音を立てる程になった。

 取るものも取り敢えずアパートに飛び込むと、皆んないなくなっていて理子が一人で後片付けをしていた。

「まあ、降られたね。びしょびしょじゃない」

 驚いた理子が奥からバスタオルを持ってきた。

「あん、静かだね皆んなどうした?」

「美緒と幸太夫はバイトに行ったよ。安朗は部屋。暢子はこれからどうするの?」

「取り敢えずシャワー浴びて…それから作業場へ行くよ。そろそろ作品の提出迫ってるし」

 そう言って地下のアトリエを指差した。

「どうした?」

 理子がいつになく神妙な顔で机に目を落とすと、何か言いたげに黙り込んで暢子を見た。テーブルを拭く手が止まる。

「私学校は卒業出来るように頑張りたいと思うけど、油絵じゃ食っていけないって解ってるの。そこまで才能があると思えないし、でも絵は描いていきたいの。今のバイトが一段落したら、もう少し就職に近いバイト探そうかな…」

 と、話出した。

 大学も三年になると自分の進路について考えさせられる。理子は早い頃から卒業後のことを考えていた。暢子とは比べ物にならない程絵に対する情熱が強い。その道に進みたいといつも言っていた。

「そうだね。好きな事、ずっとやらせてもらって、そろそろ本気出さないとね」

 と言った時ホールから河合のピアノの音が聴こえてきた。

「あ、河合のピアノだ」

「何だ今頃、由美ちゃんに聴かせてやれって言ったのに。安朗のチェロも良いけど河合のピアノも良いね〜。誰か一人くらい有名人にならないかな…わたし達の仲間でさ」

 雨に似合う河合の静かなセレナーデを聴きながらアトリエに向かう。髪を拭きながら通り過ぎる暢子を見上げて、河合が声をかけた。

「雨に降られたのか?」

「うん、グッショリ。降る気配はしてたんだけど日課だから走っとかないと。体が冷えちゃってシャワー浴びたよ。

 やっぱ良いね〜河合のピアノ。すっごくいい環境にいるって嬉しくなるよ」

 暢子は素直にそう言った。

「ばか、こんなんお前だってちょっと練習したら弾けるよ」

「また、それは嘘だよ。私も手先は器用だけどピアノとなるとぜんぜん違う。ピアノの神様はそんなに甘くないよ」

 そう言って顔の前で手を降っている暢子を見てフッと笑うと、河合はピアノを弾きながら話を続ける。

「仕事するのか?」

「うん、しばらく弾いててね」

「根詰めるなよ」

 まるで弾き語りしているような優しい声。

「OK!」

 暢子は人差し指と親指の丸で答えてホールを通り過ぎ、アトリエに下りて行った。

 半地下のアトリエは高い窓から自然光が降り注ぐ理子と暢子の夢のお城。この部屋から生み出される絵や彫刻は二人の未来への道しるべだった。パソコンもCDもラジカセもない古風なお城。ホールから聞こえる音楽科の連中の生の音楽が唯一の癒やしだった。

 片手にノミを片手に木槌を持って腰を据え勇ましい姿で彫り始めた。

 裸婦モデルも彫刻も暢子にしてみたらどちらも地味で根気のいる仕事だった。ここ一番という時には集中力のある暢子は、一つの事に打ち込むと時間も忘れて没頭した。しんどいわけではないが、こういう気長な仕事を、河合や安朗の奏でる音の聴こえる空間で、出来ることがとても幸せだった。

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