第62話 なんで
既に水谷家の騒動は遥か昔、文化祭や2学期中間試験すら終わった11月の初旬。
うちの高校はそこそこの進学校なので、同級生は皆少しずつ受験モードに移行している。
高校生活の中で最も楽しい時期が終わったんだな、とみんな気付いているのだ。
秋が深まるのも相まって、なんとも言えないもの寂しさを感じる時期だ。
昼休みの中庭に、ぴゅうっと秋風が吹く。
中庭のベンチに座っていた俺は、「さみっ」と思わず呟いた。
しかし、隣で弁当を食べているはずの、水谷からの反応はない。
「あれ?」と思って水谷の方を見ると、彼女は弁当を膝の上に乗せたまま、こっくりこっくり船を漕いでいた。またか、と俺は思う。
最近彼女は、居眠りをすることが多い。つい先ほどの数学の授業でも、うつらうつらしていたところを先生に指されて困っていた。
今は席が近いので、俺が答えを教えれば何とかなる。でも、いつもいつも俺が助けられるわけじゃないので、もっと根本的なところで何とかしないとなあ……とも思っている。
しかし睡眠不足の原因、か。
水谷のことだから、ピアノの練習に根を詰め過ぎている、とか?
……うん、これはかなりあり得そうだ。何せ最近の水谷は、本当に楽しそうにピアノを弾いている。
理由を推測しつつも、水谷の寝顔を改めて見る。
美人は3日で飽きる、なんて言葉もあるけど、彼女の整った顔には何度見てもはっとさせられる。
多分俺は、明日も同じことを思うだろう。
だって昨日も、同じように感じたのだから。ということは、明日の明日である明後日も、同じように思うわけで……って、ちょっと待て。
そうすると俺は、永遠に水谷の顔に慣れないじゃないか。
ちょっと前に習った数学的帰納法を用いれば、そう証明されてしまう。
今は昼休みなので、水谷を起こす必要はない。何よりこの寝顔を崩したくないので、俺は水谷をそのままにしておくことにした。何となく水谷から目が離せずにしばらく眺めていると、彼女の指先がふと目に入る。
右手の人差し指に、傷が付いていた。
よく見ると他の指も、少し傷付いているように見える。指先の扱いには特に気を付けているはずの水谷にしては、珍しい光景だった。
……まさか、また何かおばさんとの間で問題が起きたのか?
疑念が湧き出てきたその時、水谷がはっと目を覚ました。
膝の上に置かれた弁当箱をぼんやり見つめた後、むくりと俺の方を向く。
俺は彼女の碧い眼を真っ直ぐ見返した。
「その指、どうしたんだ?」
「……えっ?」
水谷が眼を何度かぱちぱちさせた後、弾かれたように自分の指を見た。
それから顔をそっぽに向ける。
「別に。なんでもないよ」
「……そうか」
——これは間違いなく嘘をついてるな。
そう察したものの、俺はそれ以上の追及を避けた。
水谷が言いたくないということは、何か理由があるのだろう。自分を虐待するおばさんを庇っている……なんて闇の深いことは、流石にないと信じたい。
* * *
11月13日、日曜日。
俺は17歳の誕生日を迎えた。
とはいえ、高2にもなるとそこまでお祝い感はない。母さんがケーキを予約してくれたらしいけど、当の本人は仕事疲れでぐっすり寝てるし。まあ、ケーキ自体は母さんが寝てる間に届いたから良いんだが。
昔は早く大人になりたいと思ってたけど、最近はむしろ歳を取るのが怖い。
未だ何者にもなれてないのに、ただひたすら年齢だけ重ねてゆくことに焦りを感じる。水谷みたいなすごい子が彼女だと、余計にそう思う。
……今更だけど、そもそも彼女でいいんだよな。
実のところ俺たちは、自分たちの関係を直接確かめたことがない。
何となくなし崩し的に「それっぽい」関係になってるだけで、俺も水谷も、一度もそう口にしたことはないのだ。
多分これは、俺と水谷の関係の始まりが、偽の恋人関係だったからこそ成せるわざだ。普通と違って最初から「彼氏」であり「彼女」だった俺たちにとって、友達と恋人の境目は、どこかぼやけたものになっている。
まあ、大丈夫とは思う。水谷とはなんだかんだで半年以上の付き合いで、向こうの考えも、前よりは分かるようになってきた。そんな俺の推測が正しければ、水谷の方でも多分、俺をそういう風に思ってくれているはず。
なら誕生日の日くらいデートしろ、と思ったそこのあなた。それは正論だが、今日に関してはちゃんと理由がある。用事があると水谷本人から連絡があったのだ。用事さえなければ、俺は水谷とどこかへ出かけていただろう。
……うん、そうに違いない。
そもそも水谷は俺の誕生日なんて知らないんじゃないか、とかそういうツッコミは置いておいて、今俺のすべきは勉強だ。
机に向かっていた俺は、一つ伸びをしてから教科書に目を戻す。
今開いているのは、フランス語の教科書。おいおい受験勉強をしろよ、と思われるかもしれないが、これには俺なりの理由がある。
夏休みの騒動で、水谷はフランス行きを直前でやめてくれた。でも、彼女がいつまでも、日本に留まってくれる保証なんてない。それに、水谷が自分の意志でフランスへ行きたいと思うようになった時、俺が足枷にはなりたくないし。
足枷になるくらいなら、水谷との付き合いに蹴りをつける。
以前の自分ならそう考えていただろう。
ただ、今の俺は違う。足枷になりたくない、でも水谷とは別れたくない——だったら水谷が留学するとなった時、俺もフランスへ行けばいいじゃないか。フランス語を勉強し始めたのは、そんな発想からだ。
「条件法現在形、ね……またややこしい名前だな」
ぶつぶつ呟きながら勉強していると、ピンポーンという音がした。
インターフォンの鳴る音だ。時計を見ると、現在時刻は正午過ぎ。
大方部活で朝から出かけてた舞が、帰ってきたのだろう。
「鍵くらいちゃんと持ってけよ……」
フランス語の教科書を閉じ、部屋を出て玄関へ向かう。
無造作にガチャリとドアを開けると、驚くべき光景が目に入った。
「……なんで」
そこには黒のスカートに白のニットという、シンプルながら秋らしい格好をした水谷がいた。おかしいな。今日は用事があると言ってたはずなのに、なぜここに来れる?
「誕生日、おめでとう」
呆然とする俺に、水谷が真顔で言った。
懐からクラッカーを取り出すと、パン、と俺に向けて鳴らす。
テープを思いっきり頭から被弾した俺は、目を瞬かせながら言った。
「ありがとう」
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