第61話 ごめんなさい、花凛!

 翌日の昼、電話がかかってきた。

 受話器を取り、「はい、もしもし。相澤ですが」と名乗ると、


「お世話になっております。上柚木高校2年A組担任の狩野と申します」


 普段の教室よりやけにかしこまった、狩野ちゃんの声がする。


「あ、狩野先生」

「なんだ、相澤くんだったのね。お久しぶり。元気にしてますか?」

「まあ、そこそこですね。それより先生がわざわざ電話なんて、何の用です?」

「あー、それがね……」


 先生は何やら言いにくそうにしていた。

 黙って続きを促すと、やがて本題に入る。


「あなたの家に今、水谷さんっている? 実は先ほど水谷さんのお母様から、水谷さんが家出したって連絡があったの。お母様が言うには、あなたの家に水谷さんがいる可能性が高いそうで……」

「……なるほど」


 ついにきたか、と俺は思った。なんならもっと早く動くと思ってたので、ここまで水谷のお母さんむこうに何の動きもなかったのが、むしろ意外だった。動くに動けない理由があったのかもしれない。


 俺は水谷の方を振り返った。

 電話の内容を察していたのか、水谷が軽く頷く。

 受話器を水谷に渡すと、水谷が硬い顔で狩野ちゃんと話を始める。


 しばらく経って、水谷が受話器を置いた。

 背中をこちらに向けているので、どんな表情をしてるのかよく分からない。


「狩野ちゃん、なんて言ってた?」

「お母さんが、私のこと探してるって。心配してるから、家に帰りなさいって」

「……そうか」


 まあ、クラス担任の狩野ちゃんとしては、そう言うしかないだろうな。


 というか、あの人も大変だ。自分の全く関与してないところで発生した家出のせいで、こうして板挟みになっているのだ。それも夏休み中に。絶対に教師なんてやりたくないな、と改めて思う。


「で、水谷はどうするつもりなんだ?」

「帰る。それで、お母さんと話をする」

「……いいのか?」


 心配の気持ちも込めて尋ねると、水谷がこちらを振り返る。

 水谷は微笑を浮かべていた。


「うん。もう、怖くないから」


 その表情を見ていると、「あ、これは大丈夫だな」と思えた。

 母相手でも一歩も引かない、という覚悟が決まっているように見えたからだ。


 でも、正直なことを言うと……少し寂しい気持ちもある。


 水谷は間違いなく、以前より精神的に成長してる。

 元々色んな才能に溢れている水谷が、これ以上成長したら……俺は置いていかれるんじゃないか。そんな不安が、どうしても脳裏をよぎる。


 フランス留学の件にしたってそうだ。

 今回こそただの旅行だったから、水谷は直前でフランス行きをやめてくれた。

 でも、いつしか水谷が、自分の意思で留学を決める可能性だって大いにある。


 そうなった時、俺はどうする。

 今のまま何の成長もなければ、彼女と同じ道を歩むなど到底不可能じゃないか。 


 ……いや、今はただ水谷の成長を祝福しよう。


 他人の成長を祝えないような人間にはなりたくない。


「じゃあ、家まで送ってもいいか?」


 せめてもの思いで尋ねると、水谷は快く頷いてくれた。


* * *


 水谷を家まで送る途中、俺たちはあまり多くを話さなかった。

 でも、初めて一緒に学校から帰った頃のような緊張はない。

 沈黙を無理やり言葉で埋める必要性を、俺も水谷も感じていなかった。


 しばらく歩くと、水谷の家のある住宅街に差し掛かる。

 いよいよだな、と流石に緊張しはじめた。


 水谷は大丈夫かな、と隣を見る。

 何なら俺より落ち着いているように見えて、逆にちょっと落ち込んだ。


 やがて水谷の家が見える。例の黒い門扉を躊躇いなく開け、水谷が中に入った。流石にここまでかな、と門扉の前で足を止める。既に玄関扉の前まで行っていた水谷が、不思議そうな顔で振り返った。


「どうしたの? 相澤も来なよ」

「や、でも……」

「今更遠慮しても仕方ないよ。相澤、この間空港で完全にお母さんに喧嘩売っちゃってるし」

「あれは、俺じゃなくて水谷が——」


 そこまで言いかけて、俺はやめた。


 水谷のお母さんからすれば、俺は敵みたいなものだ。だからこちらに喧嘩を売ったつもりがなくとも、向こうはそう捉えているだろう。それは俺が何を言おうと、今更変わらないはず。


「……まあ、そうかもな」


 開き直って、水谷の後に続く。

 ギイッという蝶番の音に、数日前の出来事を思い出した。

 あの手紙を読んだのが、もう遠い昔のことのように思える。


 心の準備をしていると、水谷が無造作にインターフォンを押した。

 ピンポーン、というどこか間の抜けた音が辺りに響く。

 まもなく、ガチャリとドアが開いた。水谷のお母さんが顔を出す。


「「「…………」」」


 3人ともしばらく無言で、顔を見合わせていた。


 ……いや、俺は悪くないよねこれ。だって、家族でもなんでもない俺がここで最初に口火を切ったら、絶対空気読めてないやつって思われるし。水谷か水谷のお母さんのどちらかが喋り出すのを待つのが、普通だと思うんだ。


 俺は慎重に、二人の顔を見比べた。

 水谷はすっと口を引き結んだまま黙っている。

 一方水谷のお母さんはというと、わなわなと唇を震わせて水谷を見つめていた。

 そもそも俺のことなど全く目に入ってないようだ。


「ごめんなさい、花凛!」


 不意に水谷のお母さんが、水谷に抱きついた。

 涙ぐんだような声で続ける。


「こ、今回のことは、私が全部悪かったわ。だから早く、家に戻ってきて! 相澤くんとのことも、許すから!」


 どうやらたった2日とはいえ、水谷が家にいないのがよほど堪えたようだ。

 水谷のお母さんは水谷を支配しているようで、その実単に依存していただけだったのかもしれない。


 抱きついた水谷のお母さんの背中越しに、戸惑った目で水谷が俺を見る。

 想定とは違ったので、拍子抜けしているのだろう。

 気持ちはよく分かる。俺も正直、もう一波乱はあると覚悟していた。


 俺は水谷に頷いてみせた。

 許すにしても突き放すにしても、水谷の決断を尊重する。

 そんな意図を込めて。


 水谷は俯いた後、自分に抱きつく母に両手を伸ばした。

 抱き返すのかなと思ったその瞬間、両肩を掴んでぐいっと自分から引き離す。

 悲しげな目をする水谷のお母さんの目を覗き込むようにして、水谷は言った。


「言っとくけど、前の私とはもう違うから。母さんが同じことしたら、私はまた家出する。それでも良いなら、今回は許す」

「え、ええ。もちろんそれでいいわ。私も、二度と同じことはしない」


 水谷のお母さんが、気圧されたように首をぶんぶん縦に振った。

 水谷がふっと息をつく。


「じゃあ、もういいよ」

「……本当? ありがとう、花凛!」


 再び水谷が抱きつかれた。


 ほぼ無表情でされるがままになっている水谷の様子が面白くて、つい吹き出してしまう。水谷が俺を睨みつけてきた。そのやりとりでようやく俺の存在を思い出したのか、水谷のお母さんがこちらに顔を向ける。


「相澤くんにも、色々と迷惑をかけたわね。改めて、ごめんなさい」

「あ、いえいえ。俺は別にいいですよ、そんな……」


 ひと回り年上の大人に謝られるというのは、なんでこう恐縮するのだろうか。

 顔の前で慌てて手を振ると、「あ、でも」と水谷のお母さんが付け加える。


「花凛にはまだそういうことをしないでちょうだい。仮にもししたら、今度こそ会うのを禁止にしますから」


「そういうこと」が何なのか分からないほど、俺は察しが悪いわけじゃない。

 慌てて頷くと、「……お母さん」という低い声が隣からする。

 見ると、水谷が頬を赤らめながらも、自分の母を睨みつけていた。 


「そういう余計なことを言うようなら、私また家出しようかな」

「ああ! ご、ごめんなさい花凛! あなたのことが心配で、私ったらつい! 今のは撤回するから、家出はやめて! 相澤くんと、いくらでもそういうことしていいから!」


 水谷のお母さんが、そう言って水谷に縋り付く。いやいや、「いくらでもそういうことしていい」ってのもおかしいだろ。水谷が言ってるのはそういうことじゃないような……。


 同じことを考えていたのか、水谷が盛大にため息をついた。

 ふと目が合うと、どちらからともなく笑いが漏れる。

 なんだか馬鹿らしすぎて笑えてきた。


 多分、水谷と彼女のお母さんが、今後もずっと平和に暮らすなんてことはあり得ないだろう。二人は何度も喧嘩する。そしてその度に、水谷は家出する。そんな光景が、既に目に浮かぶようだ。


 でも、二人のパワーバランスは以前とは決定的に違う。今の水谷には逃げ場があるし、母親に反抗するだけの度胸もある。ならもう、そこまで深刻なことにはならないだろう。


 俺は家に入ってゆく水谷を見送った後、水谷家の門を出た。

 ここ数日は常に彼女が隣にいたから、少し寂しい。


 水谷の隣にいたい。

 そんな思いが、日増しに強くなっている気がする。


 ……そうだ。ちょっと本屋を覗くか。

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