第58話 海老で鯛を釣るとはこのことだね!
駅で降りると、今度は俺の口が回らなくなってきた。
自分でもダサいとは思うが、女子を——それもとびきりの美少女を——自分の家に泊めるという事の重大さを、今更頭が理解し始めたからだ。
気持ちを落ち着かせようと、脳内で注意事項を確認する。
着替えは大丈夫。妹のを水谷に着せてやればいい。
妹の方が背は少し低いが、サイズ的には問題ないはず。
母さんへの紹介は……まあ何とかなるだろ。
既にクラスメイトが泊まりに来るとは伝えてるから、適当に挨拶して終わりだ。
ちょっとからかわれるくらいは、この際我慢してやるよ。
後は何かあったか? ……そうだ、歯ブラシはどうする。
予備の新品が2本くらいあったはずだけど、一応水谷に自分のを買わせるか?
いやでも、買わせておいて家に予備があったら申し訳ないし——。
「おーい」
「え?」
気付くと、目の前で水谷が手を振っていた。
さっきまで後ろを歩いていたのに、いつの間に前に来たのか。
「大丈夫? 何か考えごとしてた?」
「……ああ、まあ、そんなとこ」
「もしかして、緊張してる?」
「……まさか。してないよ、緊張なんて」
俺の返答に、水谷はため息をついた。
去勢なのが見え見えだったようだ。
「普通私が緊張するところだよね。相澤は自分の家に帰るだけなのに、なんで緊張する必要があるの」
「そりゃ、俺一人で帰るならそうだけど……今は状況が違うだろ。というか、逆になんで水谷は緊張してないんだよ」
「隣に私よりガチガチな人がいたら、緊張しようにもできないよ」
「…………」
はいはい、ガチガチで悪かったな。
ともかくそんなこんなで家に着き、鍵を挿して玄関扉を開ける。
「ただいま」と声を掛けると、「おかえり」と舞の声が返ってきた。
母さんの声は返ってこない。おそらく家にいないのだろう。
そう言えば高校の同窓会に行くとか言ってたような。
「お邪魔します」
水谷の凛とした声が屋内に響いた。
「え?」という舞の声が部屋から聞こえる。
続いてドタドタという音がしたかと思うと、舞の部屋の扉がガチャリと開く。
「…………」
隙間からひょっこり舞が顔を出した。Tシャツにショートパンツというラフな格好で、無言のまま水谷の顔をじっと見つめている。
「こんばんは、舞さん」
水谷が涼しげに挨拶した。
舞はやはり黙りこくったまま、今度は俺に顔を向ける。
「どういうことだ、説明しろ」
やつの目がそう言っていた。
「ちょっと事情があって、今日は水谷を家《うち》に泊めることにした。申し訳ないけど、舞にも色々協力して——」
「えー!? ほんとに花凛さんが家《うち》に泊まってくれるの!」
俺の説明を最後まで待たずに、舞がほとんど叫ぶように言った。
よほど嬉しいのか、目が爛々と輝いている。この間の初対面から予想はついてたけど、こうして実際に歓迎してくれるとほっとするな。
「やるじゃん、兄貴! 海老で鯛を釣るとはこのことだね!」
「誰が海老だ。人を海産物にたとえるな」
いつものノリで反射的につっこんでから、そう言えば今は水谷もいるんだった、と隣を見る。水谷は俺たちのやりとりを、くすくす笑いながら見守っていた。どうやら思いの外受けは良かったらしい。
海で濡れた服をそのまま着て来ているので、まずはシャワーを浴びようということになった。水谷に先を譲り、舞には水谷に服を貸すよう頼む。舞は快く頼みを引き受けてくれた。
その間俺は、夕食の準備を進めることにした。
有り合わせの食材を鍋にぶち込み、カレーのルーを加えて煮込む。
こういう時、カレーは本当に便利だ。
やがて水谷が洗面所兼風呂場から、リビングに出てきた。
台所で鍋の火加減を見ていた俺は、ガチャリというドアの開く音に振り向いて絶句する。
「お風呂出たよ……って、どうかした?」
タオルで鮮やかな金髪を拭きながら、水谷が首を傾げる。
水谷の格好は、Tシャツにショートパンツという舞と同様のものだった。
ただ、ひと口に同じ格好と言っても、着ている人間が違うから当然見え方も変わるわけで。ショートパンツから伸びる白い足が眩しくて、目のやり場に困る。
でも、今問題なのはそこじゃない。
足よりももっと上、水谷の着ているTシャツ。それは明らかにワンサイズ大きめで、どう考えても舞のものじゃなかった。
「あー……水谷。今すぐそれを脱いでくれないか?」
頭を掻きつつ俺は告げた。
「え? ……え?」
何を勘違いしたか、水谷が頬を赤く染めて一歩身を引く。
俺は慌てて誤解を解いた。
「違う違う。洗面所でいいから、シャツを着替えてくれってこと」
「……なんで?」
「いや、その、つまり何というか……」
——水谷の着てるTシャツが、俺のだからだよ。
なんて言ってしまっていいものかどうか。
多分水谷は、そうとは知らずにTシャツを着ている。
おおかた舞が用意したのだろう。
こんなトラップを仕掛けるなんて、全くなんてクソガキだ。
今すぐ叱ってやりたいところだが、あいつは部屋に逃げたのか。
しかし何というか、背徳感のすごい光景だな。
今まで自分にそういう性癖があるとは知らなかったが、こういうのも中々……って、俺は何を考えてるんだ! 今はそんな場合じゃないだろ!
「と、とにかく、そのTシャツはまずい。舞のシャツがあるだろ。そっちに着替えてもらって——」
「でも、舞さんのシャツだと、胸がちょっと……」
「そ、そうか」
水谷が自分の胸部を見下ろした。
釣られて俺もその部位に注目してしまい、慌ててカレーに目を戻す。
なるほど、胸部か。俺は根っからの男なので、そこまでは気を配れなかった。
胸がきついから嫌なのか、目立つから嫌なのかまでは分からない。だが、普段着ているのよりワンサイズ小さいTシャツなら、確かにそういうことも起こるはず。
というか、水谷って胸が大きい方だったのか。
今まで俺がそこにあまり注目しなかったから、気付かなかっただけ?
それとも水谷が着痩せするタイプだったとか?
……って、また余計なこと考えてるし。
首を振って無理やり正気に戻すと、俺は水谷に真実を明かす覚悟を決めた。
真実を聞いた水谷は、恐らく嫌な顔をするだろう。
でも、そうとは知らないまま着続けるよりはましなはず。
俺の受ける精神的ダメージはこの際無視。
再び俺は、カレーから水谷の方へ向き直る。
「水谷。ちょっと言いたいことがある」
「う、うん。何?」
俺の改まった様子に何か感じ取ったのだろう。
水谷が髪をそそくさと弄り、その場で整え出した。
一応それを待ってから、俺はついに言う。
「非常に言いにくいんだが、そのシャツは俺のなんだ。舞のじゃない」
「……あ、うん、知ってる」
少し間を置いて、拍子抜けした様子で水谷が言った。
「え?」
何、もう知ってんの?
きょとんとする俺を見て何かに思い至ったのか、水谷がはっと目を見開いた。
Tシャツの裾をつまみ、上目遣いに言う。
「もしかして、他人《ひと》に着られるの嫌だった?」
「……俺は別に気にならないけど。むしろ水谷こそ嫌じゃないか?」
「私も気にしないかな。あ、もちろん、誰のシャツでも着れるってわけじゃないんだけど、相澤のならまあ……」
そこまで続けたところで、水谷が「あっ」と声を上げた。
俺から目を逸らし、やたら早口で言う。
「とにかく相澤が嫌じゃないなら、私がこれ着ててもいいんだよね?」
「あ、ああ。そういうことになるな」
「じゃあ、これでこの話は終わりってことで。……ていうか、相澤も早くシャワー浴びなよ。気持ち悪いでしょ、ずっとその格好だと」
「それはそうだな。とりあえずカレーが煮込み終わったら——」
「いいよ。それ、私がやるから」
「でも、お客さんに手伝わせるのもなあ……」
俺は少し迷った後、部屋でぐだぐだしてたであろう舞を呼んだ。
舞にカレー作りのバトンを渡すと、すれ違いざま「どう? 良かったでしょ」と耳元で囁かれる。
「何が」
「花凛さん、彼シャツやってるじゃん。男子ってああいうのが良いんでしょ?」
やはりお前の差し金だったか。
俺は舞の頭を軽く叩いてから、風呂場に向かった。
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