第57話 海に行きたい

 薄茶色の砂浜と、ほんのり緑がった暗い青色の海。

 さらにその奥には空が広がり、砂浜と海とで3層のミルフィーユのようになっている。たった今俺の眼前に広がる光景のことだ。


「海だ!」


 珍しく子供のような歓声を上げ、水谷が海へ駆け出した。

 脱いだローファーは砂浜に置いて、足元は裸足の状態。

 人気のない砂浜で、俺は苦笑混じりに彼女の背中を見つめる。


 事の発端は、水谷のこんな台詞だった。


「海に行きたい」

「海?」


 本当に唐突な発言だったので、思わずおうむ返しに聞き返す。


「うん。なんか今、そんな気分」


 水谷はこくりと頷いた。


 そうか、そういう気分ならもう仕方がないな……とスマホを使って俺は調べた。すると、ちょうど今乗っている電車を途中駅で降りれば、どうやら海に行けるらしいと分かる。


 調べた結果を、俺はそのまま水谷に伝えた。

 すると水谷が「じゃあ、そこに行こっか」と承諾。今に至るというわけだ。


 にしても、今の水谷はまるで小学生のようだ。一人で浅瀬に入ってゆき、足を動かしてパシャパシャと海水を砂浜にかけている。微笑ましくて、見てるだけで勝手に口角が上がりそうになる。


「相澤は入らないのー?」


 水谷が口に手を当て、いつもより大きな声で言った。

 砂浜で一人突っ立っていた俺は、自分の足元を指差す。


「俺、ジーパンなんだけど」

「そんなこと言ったら、私も制服だよ。裾上げたら入れるでしょ」

「ええー……」


 まず大前提として、制服で海に入るのがおかしいと思うんだけどな。

 それとも世の中的には水谷の感覚が正しくて、俺の感覚が間違ってるのか? 

 着替えがあるわけでもないし、家までの距離を考えると結構恐いんだが。


「……ごめん、無理言って。そうだよね、その格好じゃ海に入り辛いよね」


 せっかくテンションが上がっていたのを俺の反応で現実に引き戻されたのか、水谷がしゅんとしてしまった。入れと命令されるより、そういう顔をされる方が心が痛む。「俺ってもしかして、ノリ悪いのか?」と自問自答しちゃうんだよな。


「ああもう、分かったよ。入ればいいんだろ、入れば」


 結局根負けしてそう言うと、水谷がパッと顔を輝かせた。

 さっきは小学生と表現したけど、小学生どころか幼稚園児かもしれない。

 水谷の反応が、あまりに素直過ぎる。


 靴を脱いでジーンズの裾を入念に捲った後、俺は海水に足を踏み入れた。

 すると水谷が「へい」と足を動かし、パシャリと水を掛けてきた。

 飛び散った滴が、ほんの少しジーンズにも掛かる。


 軽い仕返しのつもりで、同じくらいの強さで水を掛け返した。

 すると今度は、水谷のスカートに飛び散った滴がかかる。水谷が「うわっ」とわざとらしく顔をしかめた後、さっきより強めに水を掛け返してきた。


「やりやがったな、こいつ」


 そこからはもう泥試合。自分達でも何をしてるのか意味が分からないけど、なんだか無性に笑える時間だった。そうして散々水を掛け合った後、俺たちは今砂浜の手前の石段に、並んで座っている。


「あーあ、だいぶ濡れちゃった」


 全然残念だとは思ってなさそうな声音で、水谷が言った。


「本当だよ、ふざけんなよ」


 濡れて肌に吸い付くシャツの心地悪さを、存分に感じながら俺は言った。

 アハハと笑う水谷に、俺はさらに毒づく。


「笑い事じゃないよ。しばらく電車乗れないじゃないか」

「なら、ここで服が乾くのを待つしかないね」


 水谷が顔をこちらに向ける気配がした。

 目の前の海から隣に目を移すと、案の定水谷と目が合う。

 彼女は微笑を浮かべていた。


「私は嬉しいよ。相澤といる時間が増えて」

「……今日の水谷は、なんかおかしいよ」


 俺は海に目を戻した。

 真っ直ぐな言葉をそのまま受け取れるほど、純粋な人間じゃない。


「そうかな? 相澤も大概じゃない?」

「まあ、それは認めるけど……やっぱり水谷も変だって」

「どうだろう。でも、相澤の言う通りかも。多分今の私って、たがが外れちゃってるんじゃないかな」


 他人事のように水谷が言う。


 しかし、たがが外れる、か。

 確かに今の水谷を表現するには、うってつけの言葉だ。

 制服のまま海に入ったり水を掛けあったりと、やりたい放題だもんな。


 相変わらず他人の話をしているかのように、水谷は続けた。


「お母さんに言いたいこと言って、色々スッキリしたからかな。いつもなら『ここまでならOK』って教えてくれるラインが、今日は引かれてないみたい」

「つまり、ライン引きを誰かがさぼったんだな」

「もしくは引かれていたラインを、誰かが消しちゃったか」

「……言っておくが、俺じゃないぞ」

「誰も相澤とは言ってないけど?」

「口では言ってなくても、水谷の目がそう言ってたんだよ」

「相澤今、私の目を見てないよね」

「……横目で見てるよ」

「横目じゃちゃんと見えないよ。ちゃんと正面から見て確認してほしいな」

「…………」

「ねえ、聞いてる?」


 水谷が肩を揺さぶってきたので、仕方なくそちらに向き直った。

 海の色にさらに緑が混ざったような、碧い瞳と正面からぶつかる。


「どう? 私の目。言ってないでしょ、そんなこと」

「……さあ、分からないな」


 照れ臭くて目を逸らすと、水谷が「あ、逃げた」と文句を言ってくる。


「逃げてない」

「嘘だ。逃げてたよ、絶対」


 などとくだらないやりとりを交わしつつ、しばらくそこでのんびり過ごす。


 夏の日差しのおかげか、思いの外早く服は乾いた。

 その分汗もかくわけだが、海水でびしょ濡れの状態よりはましだろうと思って、引き返して電車に乗る。


 電車に乗った後も、水谷はいつになく高いテンションで色んなことを話した。

 彼女の家庭環境についても、俺はこの時初めて聞いた。


 でも、徐々に家に近づくにつれ、水谷の口数が少なくなっていく。

 俺はそのわけを察していた。だから、自宅最寄り駅まであと5駅というところまで来た時、ある提案を水谷にした。車窓から見える空は、茜色に染まっていた。


「水谷。今日家《うち》に来るか?」


 実を言うと、深夜に水谷と会っている頃から考えていたことだった。

 ただ、あの時はまだ水谷のお母さんに深夜の密会がばれてなかったから、このままでも大丈夫と安易に考えて口にしなかったのだ。


 今はその判断が間違いだったとはっきり言える。他人の家のことをとやかくは言いたくないし、水谷のお母さんが悪い人だとまでは決して思わないが……俺はあの人と水谷が一度距離を置く機会を、もっと早く作るべきだったんだ。


 しかし、自分で言うのも何だが、こうもさらりと誘いの言葉を口にできるとは。

 さっきは水谷にいつもと違うと言ったが、俺も俺で確かにおかしくなっているのかもしれない。何かが吹っ切れてしまったようだ。


 水谷は一瞬目を見開いた後、「でも……」とためらいがちに俯く。

 彼女が何を考えているかは想像がついた。

 図々しいように見えて、相変わらず変なところで律儀なやつだ。


「俺に迷惑をかけたくない、なんて考えてるようならはっきり言う。こっちは既に大迷惑を被ってるから、今更だぞ」

「……意地悪」


 冗談っぽく俺を睨みつけた後、水谷がふふふと笑った。


「じゃあせっかくだし、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

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