第56話 責任、取ってくれればいいよ

「水谷。フランスに行くな」


 空港で水谷に面と向かって、そう口にした後。

 自分がとんでもないことを言ったという自覚が、じわじわと湧き上がってきた。


 羞恥の感情で、あっという間に心が染められてゆく。

 顔が熱い。水谷の目を見れない。


 かと言って少し下を見ると、水谷の制服のブラウスが目に入る。夏服でブレザーを着てないから、ブラウス越しに胸を見ようとしてるやつみたいになってしまう。そんな誤解はされたくないから、自然と俺の視線は宙空に向く。


 気まずい思いをしながらも返答を待っていると、意外にも水谷は即答した。


「分かった、行かない」

「そうだよな。いきなりこんなこと言われても、普通断るよな。俺が水谷の立場でもそう思うし、そもそも俺だって別に……えっ?」


 ちょっと待て。

 当然断られるものとも思って言い訳を捲し立ててたが……今水谷は「行かない」って言わなかったか? 俺の記憶が間違ってなければだけど。

 

「行かないって、どこへ?」

「……この流れなら、普通分かるよね」


 念のため確認すると、水谷がため息をついてからぼそりと言う。


「フランス」

「……そんなにすんなり変えられるものなのか? 行くなって言った側の俺が言うのも何だけど」

「だって、相澤は今その券を使ったんだよね。なら、私は相澤の言うことを聞かなきゃいけない。違う?」

「ちが、くはないけど……」


 あれ? 本当にこんな感じで上手くいっていいのか?

 なんかもう少し、一悶着あるもんだと思ってたんだが。


 悪戯っぽい目で、水谷がこちらを見上げてくる。

 一方の俺は、かつてないほどうろたえていた。見切り発車で来たは良いものの、後のことなんて正直何も考えてなかったんだよ。


「花凛、どこにいる……って、あなたたち何してるの!?」


 その時、甲高い声が空気を切り裂くように飛んできた。

 思わず声のした方を振り返ると、案の定そこには水谷のお母さんがいる。

 何事かと訝しんでいるのか、周囲の乗降客の視線がこちらに集まった。


「あ、えっと、どうも。相澤です」

「そんなのとっくに知ってるわよ!」


 何を言えばいいか分からず咄嗟に挨拶すると、水谷のお母さんから鋭い声が返ってくる。いや、ほんとおっしゃる通りです。よく考えたら、俺は何を今更自己紹介紛いのことをしているのだろう。


 水谷のお母さんが、こちらを睨みつけながら続ける。


「それよりあなた、なんでこんな所にいるの。花凛のストーカーか何か? そういうのは迷惑だからやめてちょうだい」

「ですよね、そう思いますよね。お気持ちはよく分かるんですけど——」

「相澤くん、あなたに私の気持ちなんて分かるはずないわ。だって、子供なんて持ったことないでしょう」

「それもその通りなんですけど——」

「ねえ、お母さん。私、フランスには行かないことにしたから」


 水谷のお母さんの怒涛の口撃に防戦一方になっていたところ、水谷が不意に口を挟んできた。俺に向いていた水谷のお母さんの矛先が、一瞬にして水谷に向く。釣られて俺も水谷に目を戻した。


 水谷は何かすっきりしたような笑みを浮かべていた。

 水谷のお母さんが、不審の目を彼女に送る。


「はあ? あなた急に何言ってるの」

「だから……こういうこと」


 水谷がスカートから財布を出すと、さらにその中から一枚の紙を取り出した。

 それはフランス行きの航空券だった。

 水谷は財布をしまうと、航空券の真ん中の辺りを両手で持つ。


「……ちょっと、花凛。変な冗談はよしなさい」


 嫌な予感がしたのだろう。

 水谷のお母さんの目の色が、怒りから恐れに変わるのが分かった。


 一方の水谷は、今まで母親の前だと大人しくなっていたのが嘘のように、この場の空気を完全に掌握していた。遠巻きにこちらを見る周囲の人々が、もはや舞台女優を見に来た観客のように見えるほどだ。


 当事者の俺ですら、ほとんど彼らと同じ立場だった。

 つまり、息を呑んでその瞬間が訪れるのを見守っていた。

 

「ごめん、お母さん。でも、冗談なんかじゃないんだ」


 水谷が手にした航空券を、水谷のお母さんによく見えるように掲げてみせた。

 水谷のお母さんの顔が、怒りや羞恥など様々な感情の入り混じった表情へと歪んでゆく。それを目にしてもなお、水谷は凪いだ海のように落ち着いていた。


「私……本気だから」


 ビリビリビリ、という音がした。

 水谷が航空券を、真ん中から真っ二つに破る音だ。


「…………」


 衝撃のあまりものも言えない様子の水谷のお母さんを前に、水谷は細かく紙を破く。シュレッダーにかけたんじゃないかと思うくらい徹底的に破いた後、その紙屑をポケットにしまった。そして平然とした顔で、俺の方を見て告げる。


「行こ、相澤」

「お、おう」


 一拍遅れて俺は頷いた。「フランスに行くな」なんて小っ恥ずかしいことを言っておいて何だけど、俺まで水谷の行動に圧倒されていた。だって、そこまでするとは普通思わないじゃないか。


 水谷が手を差し出してきた。おずおずとその手を取り、なおも呆然としている水谷のお母さんに軽く頭を下げる。今がチャンスと、俺は水谷の手を引いて走り出した。スーツケースも何もかも置いて、水谷がついて来る。


「ちょ、ちょっと! まだ話は終わってないわよ! 待ちなさい!」


 ようやく我に返ったのか、背後から水谷のお母さんの鋭い声が飛んでくる。

 俺はその声を努めて無視しつつ、元来た道を引き返した。

 エスカレーターで下の階へ下の階へと降りてゆき、地下1階にたどり着く。


「っと、金が……」


 電車に乗ろうと改札を抜けたその時、財布の中身がほとんどすっからかんなことに気付く。これではPASMOにチャージできない。「まずい」と迷ったその時、水谷が握っている方の手をくいと引っ張った。振り返ると、水谷は空いている手でスカートから財布を取り出す。


「お金ないんでしょ。払うよ」

「……悪い、恩に着る」


 というわけで水谷からお金を借り、なんとか改札口を抜けることに成功した。


 次の電車が発車するまでの時間が長かったらどうしようと思っていたが、幸いにも電車はすぐに出発するようだった。俺は水谷と二人で乗り込み、空いている席に並んで座る。二人とも走り通した後だけに、息が切れていた。


 まもなくプシューッという音を立て、電車のドアが閉まる。

 呼吸を落ち着かせていると、隣からフフッという笑い声が聞こえた。

 見ると、水谷が俯いて肩を揺らしている。


 よほどつぼに入ったのか、水谷はしばらくそうして笑っていた。

 やがて顔を上げると、目尻の涙を拭って言う。


「はあ、面白かった。初めて見たよ、お母さんのあんな顔」

「……あのなあ。こっちはヒヤヒヤもんだったんだぞ。水谷があそこまでするとは思わないじゃないか」

「でも、相澤だってちょっとは楽しんでたんでしょ?」

「…………」


 俺の無言を肯定をと捉えたのか、水谷がくすりと笑う。

 ああ、そうだよ。俺だって胸がすかっとしたよ。


「でも、良かったのか?」


 ——フランス留学の話を無しにしてしまって。


 大事な箇所を省略した言い方だったけど、水谷には伝わったようだ。

 彼女が「うん、いいの」と軽く頷く。


「2週間の旅行くらいなら、またいつか行けるから」

「えっ?」

「えっ?」

「……いや、なんでもない」


 どうやら俺は、とんでもない勘違いをしてたみたいだ。


 確かに今振り返ってみると、俺は水谷家の隣人のおばさんから「水谷親子がフランスに行く」と聞かされただけだった。「留学に行く」とは言われていない。それを勝手に留学と結び付けたのは俺の方だ。


 大体、夏休み真っ只中に留学だなんて、最初からおかしいと思うべきだったんだよな。向こうは秋から1学期が始まるらしいしこんなものか……と勝手に自分で納得してたけど。


 しかし、俺ってだいぶイタいやつじゃないか?

 今生の別れならともかく、これから旅行へ行く人に「行くな」だなんて。

 そりゃ水谷が想定よりすんなり受け入れる訳だよ。

 だって旅行だもの。留学じゃないんだもの。


 ……この勘違いは、墓場まで持って行くことにしよう。


「相澤のせいだからね」


 心の中で決意していると、水谷が悪戯っぽい顔でこちらを覗き込んできた。


「はぁ?」

「私があんなことしたのは、全部相澤のせいだから」

「……他人に責任をなすり付けるな」

「でも、『水谷があそこまでするとは思わない』ってさっき相澤は言ってたよね。それって、普段の私ならああいう行動を取りそうにないって思うからこそ、出てきた言葉じゃない?」

「それはそうだけど……」

「それに、そもそも相澤が空港まで来てあんなこと言わなかったら、私はチケットを破らなかったし」


 なんとなく旗色が悪いのを感じたので、素直に降参することにする。


「はいはい、全部俺が悪かったよ。それで、俺どう埋め合わせればいいんだ?」

「別に、埋め合わせして欲しいわけじゃないんだ」

「……? じゃあ、何をして欲しいんだよ」


 困惑する俺に、水谷が顔を近づけてくる。彼女の長いまつ毛や煌めく瞳がよく見え、心臓が勝手に高鳴りだす。こちらの動揺を知ってか知らずか、水谷は口元に手を当てながら俺の耳へさらに顔を近づけ、


「責任、取ってくれればいいよ」

「…………」


 俺はその言葉に固まった。


 もちろん俺も分かってる。

 ここで言う「責任」は2週間の旅行を台無しにした「責任」であって、「人生の責任を取ってくれ」みたいなプロポーズ紛いの台詞ではないことくらい。


 ただ、頭では分かっていても、心がドキッとするのは防ぎようがない。

 近過ぎて水谷の吐息が直に耳に当たってたし。香水なのかシャンプーなのか分からないけど、なんかいい匂いがふわっと漂ってきたし。


 そうだ、これはまた水谷が俺をからかってるんだ。

 こういう時こそ、動揺をなるべく態度に出さないようにしないと。

 俺が慌てれば慌てるほど、彼女の思うつぼになってしまう。


 ひとまず水谷の方を見ないようにして、動揺を最小限に食い止める。

 一呼吸置いて落ち着いてから、俺は答えた。


「善処はする」

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