第55話 分かった、行かない

 物心がつく頃には、自分の容姿が周囲とは違うと気付いていた。

 なぜって、視線が集まるから。


 視線にも色々あって、何でもないようなものもあれば、気持ち悪いものもある。

 私はどうしても気持ち悪い視線が気になっちゃうタイプだから、注目を集めやすい自分の見た目が嫌いだった。


 普通の黒い眼と黒い髪だったら、ひっそり生きていけるのにって。

 パパがフランス人じゃなかったら……って。

 酷い娘だよね。今はもう受け入れてるけど。


 ただ、私が酷い娘なら、パパは酷い父親だった。

 私に対しては優しかったんだけどね。

 お母さんとよく喧嘩してたんだ。浮気してばっかりだったから。


 とはいえ喧嘩の原因は、パパだけにあるわけでもなかった。

 お母さんにも色々問題があったんだ。金遣いの荒さとか。

 私にしてみれば、理由は正直どうでも良かった。


――どっちが悪いとか知らないから、静かにしてよ。


 ずっとそう思ってた。


 そのうち私は、パパとお母さんを静かにさせる方法に気付いた。

 私がピアノを弾いてる時だけは、二人とも私の演奏を聴いてくれるんだ。


 お母さんはプロピアニストを目指してた人だし、パパもクラシックには造詣が深かったからかな。音楽に対しては、二人ともリスペクトがあったと思う。


 徐々に私はピアノにのめり込んでいった。

 でも、のめり込んだのは私だけじゃなかった。

 お母さんが、私に対して結果を求めるようになってきたんだ。


 当時習ってた音楽教室を「音が濁るから」って辞めさせられた。

 それ以来お母さんが私に指導するようになって……ピアノがあんまり楽しくなくなった。喧嘩よりはマシかって思って、ずっと続けてた。


 ただ、パパとお母さんの仲は、私のピアノだけじゃもう保たないほど亀裂が入ってた。結局パパはフランスに帰り、私たちは今日本にいる。お母さんはあんなにパパと喧嘩してたくせに、今はフランスに行きたがってる。


 面倒くさい人だとは思う。

 でも、私にも同じ血が流れてると思うと……。


 とにかくパパにしてみれば、故郷に帰っただけの話。

 お母さんからすれば単身赴任。私に言わせれば……別居かな。


 私の留学の話を出したのも、お母さんがパパに会いたいからじゃないかと私は睨んでる。お母さん一人でフランスに行ってもパパは突っぱねるだけだけど、私の留学について行くって名目なら、そうもいかないから。


 まあ、そんな感じで、私はずっとピアノを弾いてる。

 プロになれるのかは正直よく分からない。

 というか、そもそもなりたいのかも……。


 ただ、今更ピアノ辞めるほど、他にやりたいことがあるわけじゃない。

 習慣化されちゃって、弾かないと自分でも気持ち悪く感じるし。

 だからこれからも、基本的にはお母さんの言いなりなんだろう。

 というよりもはや、そうするように身体に刻み込まれている。


 深夜の家出にしたってそうだ。

 本当に私がお母さんに抵抗する気があるのなら、堂々と昼間に家を出ればいい。

 お母さんに見張られてたとはいえ、やろうと思えばできたはずだ。


 でも、私にはそうできなかったんだ。

 玄関に向かうと決まって、外出するなというお母さんの命令を思い出す。

 するとプログラムを組まれたロボットのように、足が自然と止まる。


 多分もう、そういう風に刷り込まれてるんだと思う。

 お母さんに反抗したところで、無駄に疲れるだけだって。


 だから相澤に迷惑をかけてる自覚はあっても、私には夜中に会う以外の選択肢が思い浮かばなかった。「ごめん、相澤。この埋め合わせは必ずするから」。心の中でそう謝る以外には、何もできなかった。


 お母さんに深夜の家出を見つかったあの日、私は相澤との関係の終わりを覚悟した。それでも「相澤くんに、別れの手紙を書きなさい」と言われたその時——私は初めて、表立ってお母さんに抵抗した。


 書きたくないと、必死に言い募った。

 他のことならなんでもするから。

 これから相澤とは関わらないって誓うから、って。


 結局お母さんは、私の主張を受け入れなかった。

 私は抵抗しきれず、最後は指示に従って泣く泣く手紙を書いていた。


 でも、せめてもの抵抗に……と、手紙にメッセージを込めた。


 これは私にとって、一種の賭けだった。

 相澤が気付くかどうかは分からないし、恐らく気付かない可能性の方が高い。

 でも、もし彼が気付いてくれれば……何かが起こる、かもしれない。


 フランスへの2週間の旅行がまもなく決まった。

 もちろんそこに、私の意志は介在していない。

 全てお母さんが勝手に決めたことだ。


 留学先にと考えている大学の見学と、パパに久々に会うのが目的とお母さんは言い張ってた。とは言えそれはあくまで表向きのもので、夏休みの間相澤と私をなるべく引き離すための策なのは明らかだった。


 手紙で相澤に私の気持ちを誤解させた後、2週間強制的に会わせないことで誤解を解く機会を与えず、関係を自然消滅させようという作戦なのだろう。そしてその作戦は残念ながら、上手くいってしまうはずだった。


 ただ、自分でも目を疑うことに——フランス行きの今日、相澤は空港に来た。

 それも、私がゲートから飛行機に搭乗しようというタイミングで。


「……なんで」


 相澤を目にしたその時、思わずそんな呟きが漏れた。

 なんで、の後に何が続くのかは自分でも分からない。

 多分、色んな「なんで」を含んだ呟きだった。


 なんで今、ここにいるの。

 なんで私が、ここに来ていると分かったの。


 ——なんで私が来て欲しいと思った時、相澤は本当に来てくれるんだろう。


 そう言えば、いつもそうだった気がする。

 

 山本に付き纏われてた時、助けてくれたのは相澤だった。発表会の後、私の演奏をこき下ろしたお母さんに言い返してくれたのも相澤だった。そして今も、こうして目の前に来てくれている。


 私の呟きは相澤に、果たして届いたのか届かなかったのか。

 ともかく彼は、一歩ずつゆっくりと私に近づいてきた。


「……これ」


 相澤は財布から、1枚の紙切れを取り出した。

 それは私が以前彼にあげた「1回だけ何でも頼める券」。

 ああ、メッセージに気付いてくれてたんだ——その券を目にした瞬間、胸の辺りにじんわりと温かいものが伝わってゆく。


「これが、どうしたの」


 努めて冷静な態度を装って、私は尋ねた。

 でも、ほんの少しだけ、声が震えていたかもしれない。

 相澤にばれてないと良いんだけど。


 相澤は平坦な声で尋ねてきた。


「今、使ってもいいか?」

「それは良いけど……今の私にできることって、そんなに多くないと思う」

「大丈夫。無理なことを頼むつもりはないから」


 相澤はそう言った後、少しためらってから続きを口にする。


「水谷。フランスに行くな」


 その言葉を聞いた瞬間——私をずっと縛っていた鎖が解けた気がした。


 そうだ、この券は「1回だけ何でも頼める券」。私は今相澤の言うことを聞かなきゃいけない。ならお母さんの意に反するような行動を取ったとしても、仕方がないよね——って。


「分かった、行かない」


 気付くと私はそう答えていた。

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