第47話 おはよう

 カナカナカナ……というヒグラシの鳴く声で、俺の意識は覚醒した。

 気のせいか、いつもより蝉の声が近い。

 しかもなんだか暑いし……と目を開け、目の前に広がる光景に言葉を失う。


「…………」


 視界の上にはブランコが、下には滑り台が見えた。

 そして正面に車止め。

 どう見ても、どこかの公園にしか見えない。


 ……あれ? なんで俺は今こんなところにいるんだ?


 昨日のことを振り返ろう。

 水谷からの返信がないとやきもきしてたら、確か夜中に急に連絡が来て、それで家を飛び出して……。


 そうだ。いくら脳内を探ってみても、あの後家に帰った記憶がない。

 記憶がないということは、家に帰ってないということだ。

 つまり俺は昨夜(というより今夜)、公園で夜を明かしたのか?


 ぐるんと寝返りを打ち、真上を見る。

 俺の寝るベンチには、ちょうど大きな木が覆いかぶさっていた。

 早朝の木漏れ日が、ちろちろと腹の辺りを照らしている。


 ……どうも本当に、公園で寝てたらしい。


 まあ、俺一人公園で寝る分には何も問題ない。

 もし母さんにバレてたら、家に帰った時に怒られるくらいだ。

 バレてなかったら、それこそ何もお咎めはないだろうし。

 

 しかし木のベンチにしては、やけに頭部の感触が柔らかいな。

 これ……本当にベンチの感触なのか?

 そう言えば、寝る前に水谷と別れた記憶がない。

 水谷はどうしてる? 流石に家に帰ってるよな?


 身を起こすと、「ん……」という声が背後から聞こえた。

 妙に艶かしい声にびくりと身を震わせつつ、恐る恐る振り返る。

 するとそこには……ベンチの背に身を預けて眠る、水谷の姿があった。


 そうか。さっきの感触、やけに柔らかいと思ったら……俺、水谷の膝を枕にして寝てたのか。なるほどな、これでようやく全ての謎が解けた。いやー、すっきりした……って、そうじゃないだろ。


 今、何時だ?

 もし、水谷の夜中の外出が彼女の母にバレたら、俺より遥かにヤバくないか?


 慌ててジーンズのポケットからスマホを取り出し、現在時刻を確認する。

 今は午前4時53分。この時間なら水谷のお母さんでも、流石に寝てるだろう。

 つまり今水谷を起こせば、危機を脱することができる。


 水谷の寝顔を改めて見つめる。

 ここまで無防備な彼女の顔は、未だかつて見たことがない。

 少し口を開けて俯きがちに、瞳を閉じている。


 改めて考えると、こんな子が夜中の公園のベンチで寝てるって中々危険だよな。

 次からは絶対先に寝ないようにしよう。

 どっちが先に寝たかなんて、もはやよく覚えてないが。


「水谷、起きろ。そろそろ帰らないとまずいだろ」


 ぐっすり寝ているところ申し訳ない。

 そう思いつつも、心を鬼にして水谷の肩を揺する。

 水谷は「んっ……」と眉をひそめてから、少ししてようやく目を覚ました。


「あっ、相澤だ……おはよう」


 無防備な笑みを浮かべながら、水谷が呑気に言う。

 正直めちゃくちゃかわいいが、今はそんなこと考えてる場合じゃない。

 口元が緩みそうになるのをぐっと堪えつつ、スマホで現在時刻を水谷に見せる。


「いいから、お前は早く家に帰れ。お母さんに怒られても知らないぞ」

「え、今そんな時間なんだ。私、寝ないように頑張ってたんだけど……そっか、いつの間に……」


 まだ意識が覚醒しきってないのか、随分ぼんやりとした声だ。

 それでも俺の言ったことをなんとなく理解してるのか、眠い目をこすりつつベンチから立ち上がる。俺も水谷の後に続いた。


 そのまま二人で、車止めの横を通って公園を出る。

「送っていくか?」と尋ねると、「いいよ、すぐそこだから」と水谷が通りに面した少し先の一軒家を指差した。なるほど。あの距離ならまあ、大丈夫か。


「分かった。じゃあ、今日はこれで」

「うん、また明日。……毎日ここまで走ってくれば、相澤は体力つくね」

「…………」


 走って来てたこと、やっぱりばれてたのか。

 このタイミングで刺してくるとは、寝起きでぼけっとしているようで侮れない。


 すぐそことはいえ何となく怖かったので、水谷の背中を見送る。

 彼女の姿が確かに家の中に入ったのを確認して、俺はその場で息をついた。


* * *


 その後の数日間、水谷とは深夜に会い続けた。

 待ち合わせ場所は例の公園。没収されたスマホを回収する必要がある分、毎回スマホで連絡を取るのは危険だという水谷の判断で、あの夜以降は時間を決めて会う形になっている。


 ……自分のしていることが正しいのかどうか、俺にはよく分からない。

 

 今の俺を客観的に見る。

 すると、深夜に家出を繰り返す水谷を諭しもせず、別の選択肢を示しもせず、彼女に唯々諾々と従う凡庸な高校生が浮かび上がってくる。


 水谷の行動だって、いつかは彼女のお母さんにばれるだろう。

 なら、このままではいけないはずだ。

 そう頭のどこかで思いつつも、踏ん切りのつかないまま今日まできている。


——別の選択肢、か。


 実は何も思いつかなかったわけじゃない。

 でもその選択は、水谷家に決定的な亀裂を入れる可能性がある。


 今はまだ水谷と彼女のお母さんの間に、表面的には溝が生じていない。

 水谷のお母さんは水谷の深夜の家出に気付いておらず、水谷本人もお母さんの前では、大人しく服従の姿勢を見せているからだ。


 ならひとまずは、このままでいいんじゃないか。もちろん今の状況だって良くはないが、最悪というほどでもない。こうして会っている間は水谷も元気そうだし、しばらくはこの状態を維持して——。


「相澤、どうかした?」


 温度の低い声が耳に届き、俺は思考の海から帰ってきた。

 訝しげな顔で俺の顔を覗き込む、水谷の整った顔が視界に入る。

 彼女の背後に見える公園の街灯の光が、かすかにこちらに届いていた。


「また眠くなった? 膝貸そうか?」

「……いいよ。この間の二の舞は勘弁したい」


 首を振って断ると、水谷は「そっか」とだけ呟いた。

 少しの間、何か考えるようなそぶりを見せた後、すくっと立ち上がってこちらを振り返る。


「今日はもう帰りなよ。疲れてるんでしょ、私のせいで」

「いや、そんなことは……」


 ない、と否定しかけたその時、タイミング悪く欠伸が出る。

 ばつの悪さに、水谷から目を逸らす。水谷はふふっと笑ってから、真顔を作り直して言った。


「異論はないよね?」

「……はい」


 俺はベンチから立ち上がった。

 最近ちゃんと睡眠が取れてないから、眠いことには眠い。

 今日は水谷の言葉に甘えさせてもらうとするか。


 公園を出て、水谷の背中を見送る。

 今日も「別の選択肢」を水谷に言わなかったな、とその時ふと思う。


 ……まあ、いいか。明日もまた水谷に会うんだし。


* * *


 秋斗を説得して別れた後。

 花凛は住宅街を少し歩き、2階建ての一軒家にたどり着いた。

 ここが彼女の自宅だ。


 自宅の前には門扉があった。

 慎重に開けないと、キィーッという錆びた蝶番の音がする門扉だ。

 深夜の家出の際には、ここを開ける時が花凛は一番緊張した。 


「…………」


 いつも通り、音の鳴らないように慎重に門扉を開ける。

 コツは自分の細い身体が通り抜けられる程度に開くことだ。

 大きく開けようとすると、蝶番の音が鳴るのを避けられない。


 無事門扉を通って前庭を抜けると、今度は玄関の扉を開ける。

 こちらは門扉ほど大きい音が鳴らないものの、室内に近い分気を遣わなければならない。つまり、ここも油断ならない。


 とはいえ既に今日で4回目の家出だ。

 花凛にしてみれば慣れたもので、さっと玄関扉を開けて家に入った。

 玄関は思いの外明るかった。照明が付いていたのだ。


——おかしい。


 花凛はすぐに違和感を覚えた。

 なぜならこの家には今、花凛と母の二人しかいない。そのうち一方が寝ていて、玄関の照明が付いていたのなら、花凛が明かりを付けたということになる。


 しかし、花凛は照明など付けていない。当たり前だ。

 家を出る前に明かりを付けたら、家出のばれる確率が上がってしまう。


 するとこの照明を、一体誰が付けたのか。

 花凛にはすぐさま見当がついた。

 答えは一つしかない。

 家に泥棒が入っただとか、そういう例外的な状況を除けば……。


「……花凛。あなた、こんな遅い時間に、どこへ行ってたの?」


 リビングから顔を出した母が、開口一番そう尋ねてきた時——。

 花凛は既に覚悟していた。

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