第5章
第46話 どうせ俺は悪い虫ですよ
夏真っ盛りの、7月下旬の深夜。
俺は真っ暗な自室のベッドに寝転がり、LIMEのトーク画面を見つめていた。
部屋の窓は閉め切り、もちろんクーラーをかけている。
深夜とはいえ、夏は夏だ。
……昨日、いや、厳密にはもう一昨日か。
水谷を送る途中で、水谷のお母さんと出くわした一件。
寝ても覚めても、今の俺はあのことばかり考えてしまう。
もっと何かできたんじゃないか、とか。
家庭のこととはいえ、もう少し踏み込んでみても良かったんじゃないか、とか。
ただ、そうやって延々と独り相撲をとり続けても仕方がない。
そこであの後水谷には「大丈夫か?」とLIMEを送ってみた。
現に今そのメッセージが、水谷とのトーク履歴の一番下に表示されている。
しかし、返信はなかった。
それどころか既読すら付かない。
不安になり、さらに追撃でメッセージを送ろうかとも考えた。
でも、水谷に特に何かあったわけじゃなく、単に日中は忙しかっただけという可能性もある。その場合、水谷は夜にLIMEの通知を確認するだろう。
その時に俺からやたらめったらメッセージが送られてきていたら、ドン引きされること間違いなし……というところまで考え、俺は追加でメッセージを送るのをやめたのだ。
でも、結局は今の今まで返信がない。
既読もやはり付かないとなると、本格的に水谷に何かあったんじゃないかという気がしてきた。水谷は即レスするタイプじゃないが、特別返信が遅いタイプでもないし……。
「うわぁっ!」
その時不意に「大丈夫か?」という俺のメッセージに既読が付き、思わず声を上げてしまった。慌てて自分の口を塞ぎ、隣の部屋の様子を窺う。幸いにも舞を起こさずに済んだようだ。
——うそだろ? こんな時間に?
その「こんな時間」とやらにがっつり起きていた自分を棚に上げて混乱していると、まもなく水谷からの返信が届いた。「ごめん、今から会える?」という簡潔なメッセージに、すぐさま既読が付く。
そりゃそうだ。こっちはトーク履歴をちょうど開いてたんだから。
でも、水谷にはどう思われてるかな。
「こいつ、深夜に待ち構えてやがった……!」と今頃戦慄しているかもしれない。
いや、間違いなくしてるだろう。
客観的に見て、今の俺はだいぶキモい。
……まあ、そんなことをグズグズ考えていても仕方ないか。
起きてしまったことはもう仕方がない。
それより今俺がすべきは、水谷のメッセージに返信することだ。
慌てて「会えるけど、どこで?」と打つと、少し間を置いて、水谷からとある住所が送られてきた。どうやら水谷の家の近くにある公園らしい。「了解」とこれまたシンプルな返信を返し、慌ててベッドから跳ね起きる。
ジーンズとシャツに着替えると、俺は部屋の扉を開けた。
少しでも音が鳴らないように、ノブを回してからゆっくりとだ。
部屋の外に出ると、廊下を右左と見回してみた。
深夜の家の中は、日中とは少し違って見えるから不思議だ。
そのまま靴を履き、玄関の扉もなるべく静かに開けて外へ出た。
鍵を閉めると、送られた住所を地図アプリで検索し、走って目的地へ向かう。
水谷の方が公園には圧倒的に近いので、普通にやれば向こうが先に着く。
深夜とはいえ夏なので寒くはない(どころか普通に蒸し暑い)が、長時間待たせたくはない。
とあるT字路に差し掛かったところで、俺は走るのをやめた。
このT字路を曲がれば目的地。つまり、水谷がいる可能性がある。
ここまで走ってきたと水谷にバレるのは、流石に恥ずかしい。
ワンテンポ置いて呼吸を整えてから、T字路を曲がる。
目的の公園に行くのは初めてだが、曲がった瞬間目指す場所はすぐに分かった。
なぜなら公園の入り口に、鮮やかな金髪を持つ少女が立っていたから。
「相澤!」
向こうでも俺を見つけたらしく、こちらに手を振ってくる。
水谷は白のワンピースみたいな服の上に、カーディガンを羽織っていた。
ワンピースみたいな服の方は、確かネグリジェって言うんだっけ?
一応寝巻きなんだろうけど、俺の私服よりはるかにお洒落に見える。
軽く手を上げて応じつつ、水谷に近づく。
向こうの表情——水谷は微笑を浮かべていた——が分かる距離よりさらに数歩近づいたところで、水谷が口を開いた。
「昨日ぶりだね、相澤」
「正確には一昨日だな。もう日を跨いでる」
「そこはどっちでもいいよ。……とりあえず、座ろっか」
水谷が公園の奥に設置されたベンチを指差す。
俺は頷くと、彼女と並んで公園に入った。
ベンチへ向かい、水谷と並んで腰掛ける。
しかしこの状況、物語に出てくる不良カップルみたいだな。
警察にでも見つかったら、補導されること間違いなしだ。
隣の水谷の様子を窺うと、彼女とばっちり目が合った。
水谷は何やらにこにこしている。嫌な予感しかしなかった。
「相澤、LIME見てたんだね。一瞬で既読ついたし、返信早くて助かった」
早速痛いところを突いてきたな。
でも、俺も今までの経験から学んでるんだぞ。
言い訳くらい、走ってここへ来る間に考えてきてるんだ。
「まあ、たまたまな。そう言えば今日は水谷から返信来なかったけど、こっちのレスに既読くらい付いたかなって思って見たらちょうどその時……みたいな」
「ふーん、そういうこともあるか。でも、よくこんな時間に起きてたね」
「……明日の予定も特にない、長期休みの最中だぞ? 別に起きてても不思議じゃない。10時に寝る小学生じゃあるまいし」
「確かに。相澤は高校生だもんね」
「……なんか今の言い方、すごいわざとらしく聞こえたんだが」
「気のせい、気のせい」
水谷が楽しそうに、足をぷらぷらと揺らした。
なんだこの掌の上で踊らされてる感……と顔を引き攣らせていると、水谷がさらに痛いところを突いてくる。
「あ、あと、ここに来るのだいぶ早かったね。やけに汗かいてるし……もしかして、走ってきた?」
「……この暑さじゃ、走らなくても汗かくよ。それに俺、汗っかきだから」
「へえ、初めて知った。……とりあえず、これあげる」
カーディガンのポケットから、水谷がレースのハンカチを差し出してくる。
これで汗を拭くのもな……とは思ったけど、断るのも何なので有り難く使わせてもらうことにした。
「悪い。洗って返すよ、このハンカチ」
「じゃあ、明日の夜中に返してね」
「分かった……って、なんで夜中限定?」
さらっと明日も会うことになっているのはこの際置いておくとして、時間帯が引っかかる。咄嗟にそう尋ねると、水谷が難しい顔で答えた。
「日中は厳しいんだ。お母さんに見張られてるから」
「見張られてるって……それ、大丈夫なのか?」
「大丈夫、と言いたいとこだけど、正直ストレスは溜まる」
「まあ、そりゃそうだよな……」
しかし、そこまで徹底するのもある意味すごいな。
どうも水谷のお母さんは、本気で俺を水谷に関わらせたくないらしい。
水谷はため息をつくと、こう続けた。
「スマホも没収されてるから、返信遅れちゃって……色々とごめん。迷惑かけた」
「いやいや、そんな事情があるなら仕方ないだろ。むしろ没収されてるのに、よく俺に連絡できたな」
「隠し場所には見当付いてたから。お母さんが寝るのを見計らって、こっそりと」
「……なるほど」
それで返信が深夜になったわけか。
就寝直後だとまだ起きてる可能性もあるしな。
でも、水谷もやるな。
あのお母さんに対しては、もっと従順なのかと思ってた。
「意外だなって思ってる?」
俺の心を読んでいるかのようなタイミングで、水谷が尋ねてきた。
「まあ、正直」
「だよね。自分でも意外。こんなバカなことするなんて。相澤と会う前だったら、お母さんの言うことにただ従うだけだったと思う」
「人聞きが悪いな。その言い方だと、まるで俺が水谷に悪影響を与えたみたいだ」
「……そう言われてみると、そうかも。お母さんの判断も、あながち間違いじゃなかったのかな」
「はいはい。どうせ俺は悪い虫ですよ」
俺の冗談に、水谷が肩を揺らして笑う。
水谷のお母さんからすれば、冗談でも何でもなくそう見えるんだろうけど。
「ねえ、相澤。こんなことを頼むのは気が引けるんだけど……明日以降も、ここに来てくれる? 日中はしばらくお母さんの監視が厳しそうだし……相澤の顔を見ると、なんかちょっと安心するんだ」
ひとしきり笑った後、水谷が改まった様子で言った。
なんだか照れ臭くて、俺は水谷から目を逸らす。
「……夏休みなんてどうせ暇だったから、別にいいよ。というか、真夜中にここに呼び出されてる時点で今更だし」
「それもそっか」
水谷がくすりと笑った。
彼女の笑顔に、少しでも俺が役立っていたらいい。
心の底から、そう思う。
……しかし水谷の顔を見たら、こっちも安心して眠くなってきたな。
水谷に見えないように、静かにあくびを噛み殺した。
すると水谷が、ぽんぽんと自分の膝を叩く。
「何、そのジェスチャー」
「相澤が今あくびしてたから。私の膝使う? って聞いてみた」
水谷の膝をちらっと見る。ネグリジェに包まれた細い足。
正直魅力的だとは思うが……ここで素直に「はい」と答えるのは、負けを認めたような気がして嫌だった。
「……使わない。そもそも全然眠くないし、仮に寝るとしても、普通に座ったまま寝る。今の俺、汗臭いし」
「汗は別に気にならないけど……眠くないなら、もうちょっと話す?」
「いいよ。でも、俺は今頭が働かないから、水谷が話振ってくれ」
「……やっぱり眠いんでしょ、相澤」
水谷が呆れた。
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