第44話 今日は楽しかった
公園の中でも比較的見晴らしの良い原っぱに、俺と水谷はやって来た。
既にブルーシートを敷き、見やすい位置を確保している人もいる。
幸いにもスペースはまだあった。
持って来た小さめのブルーシートを適当な場所に敷き、俺たちも腰を下ろす。
にしてもさっきから、水谷の口数がやけに少ない。
元からお喋りな方ではないが、普段に輪をかけて喋らないのだ。
それほど花火が楽しみなのかもしれない。
水谷の様子を、こっそり横目で窺う。
まだ花火が打ち上がっていないにも関わらず、彼女の目は夜空を向いていた。
しばらくして、水谷がふいっと俺の方を向いた。
見られていたことに気付いたのか、ほんのり頬を赤らめている。
「……いつ打ち上がるのか気になっただけ」
だから「私は花火にワクワクするほど子供じゃない」とでも主張するつもりだろうか。いつ打ち上がるのか気になってる時点で、既にワクワクしちゃっているのを隠せていないような気がするけど。
「へえ、そうか。俺はもう今から楽しみで仕方ないな。花火を見る機会なんて、1年に1度あるかないかだし」
水谷に生暖かい視線を向けつつ言う。
すると、水谷が頬を膨らませた。
「相澤、分かってて言ってるよね」
「何が」
「……いじわる」
ぷいと水谷が顔を逸らす。
彼女の金髪がさらりと揺れ、白いうなじが一瞬あらわになった。
——俺、水谷のことが好きなのかも。
ものすごく今更だけど、俺はそう実感した。
彼女のうなじを見たからってわけじゃないが……いや、やっぱりそれも1ミリくらいは関係してるのか?
うなじって、すごく無防備な感じがするんだよな。
某漫画でも、敵の弱点はうなじだし。
具体的な名前は忘れたが、大事な神経がうなじを通ってると聞いたこともある。
俺の感覚も、あながち間違いじゃないのかもしれない。
ヒュルルルルルル、ドン!
不意に花火が打ち上がった。
見上げると、墨で塗りたくられたかのような黒々とした空を背景に、花火玉を中心として、星が光の尾を引きながら放射状に飛び散っていく。菊花火だ。
中心部は淡い橙色で、花弁の先だけ青紫色に染まっている。
久々に生で見た花火の美しさに内心興奮していると、「……綺麗」とすぐ隣でぽつりと呟く声がした。
思わずそちらに目をやる。
水谷がその碧い瞳で、一心に打ち上げ花火を見ていた。
花火も確かに綺麗だ。
でも、それとは別の理由で、俺は言葉を失った。
その後はどんな花火が打ち上がっていたのか、よく覚えていない。
俺の脳裏に焼きついたのは……目を輝かせて花火を見上げる、水谷のあの姿だけだった。
——修二、ありがとう。
夏祭りに誘ってくれた修二に、遅ればせながら心の中で感謝した。
* * *
夏祭りの会場を去り、電車で自宅の最寄駅までやって来た後。
「送ってくよ」と提案すると、いつになく素直に水谷が了承してくれた。
てっきり断られると思っていたから、意外だった。
もしかすると、祭りの余韻が水谷の中にまだ残っているのかもしれない。
それとも単に、いつもより時間が遅いからか。
真実は神のみぞ知る、じゃなくて、水谷のみぞ知る。
「今日は楽しかった」
隣を歩く水谷が、ふと思い出したように言った。
そうか、と答えると、うん、と水谷がしおらしく応じる。
なんだろう。
別に大したやり取りをしてるわけじゃないのに、なぜだか顔が火照ってくる。
「俺も……楽しかった」
思い切って口にすると、水谷の立ち止まる気配がした。
隣を見ると、水谷の視線とかち合う。
金縛りにあったかのように、俺は目を動かせなくなった。
しばらく見つめあっていると、チリンチリン、という音がした。
正面から自転車が突っ込んで来ている。
俺は咄嗟に水谷の手を掴み、歩道の脇へ引っ張った。
さっきまで水谷のいた空間を、自転車が突っ切ってゆく。
去りゆく自転車を見届けた後、水谷がほうと息をついた。
そのまま並んで歩き始める。
手を繋いだままだったけど、何となくそのことには触れられなかった。
——向こうは下駄なんだから、これもエスコートの一環だろ。
なんて意味のない言い訳を、心の中でしてしまう。
「ありがと。助かった」
水谷が上目遣いにこちらを見て言った。
最近は慣れてきたとはいえ、彼女は客観的に見てかなりかわいい。
そんな子の上目遣いには、破壊的な威力がある。
要するに、何が言いたいのかと言うと——。
「お、おう」
俺が挙動不審な返事をしてしまったのも、仕方ないと思うんだ。
幸いなことに、水谷は俺の反応が気にならなかったようだ。
続けざまに「それと……」と何かを言いかけ、口を閉じる。
気を取り直して、俺は続きをじっと待った。
やがて碧い眼を正面に向け、水谷が口を開く。
「相澤が楽しかったなら、私も嬉しい」
「あっ……」
そんなこと言われてしまったら。
自覚し始めたこの気持ちに、ますます火が付いてしまうじゃないか。
「ふ、ふざけんな。それはこっちのセリフだ」
「……なんでそこで張り合ってくるの」
焦りを誤魔化すように強がってみせると、水谷がきょとんとする。
確かにな。なんで張り合ってんだろう。
冷静に考えると、自分でも意味わからん。
「……さあ」
「なにそれ」
水谷が空いている方の手を口元に当て、くすりと笑う。
その後はしばらく、無言で歩き続けた。
でも、居心地は悪くない。繋がれた手から水谷の満ち足りた気持ちが伝わってくるような気がして、俺の方も心が安らぐのを感じた。
逆に考えると、俺の気持ちも手から伝わってんのかな。
だとしたらだいぶ恥ずかしいけど……いや、そもそも、向こうの気持ちがこちらに伝わっているというのが、俺の思い込みでしかない。
水谷が全然別のことを思ってる可能性だってある。
昨日食べた夕食が、何だったのか、とか。
今朝通学路で見かけた虫が、どんな鳴き声をしてたか、とか。
さっき見た花火の模様には、どんな名前が付いているのだろう、とか。
俺にはまだ、水谷について知らないことが沢山ある。
1秒前に彼女が考えていたことすら分からない。
でも、それを残念だとは思わない。
なぜなら、知らないことは、これから一つ一つ知っていける。
相手に興味さえ持てれば。
それってそこそこ楽しいことなんじゃないかと、今の俺には思える。
住宅街のとある十字路を右に曲がったその時だった。
見覚えのある姿を目にしたのは。
背中まで流れる長い黒髪に、黒々とした瞳。
顔立ちこそ似ているものの、水谷より幾分冷たい印象のある背の高い女性。
見覚えのあるその姿は、紛れもなく——。
「花凛……それにあなたは、確かこの前の……」
水谷のお母さんに出くわしたのは。
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