第37話 最初に立ち上がったの、こいつなんです

 水谷のお母さんらしき人の登場に、場が静まり返る。


「お母さん?」


 気付くと俺は、水谷の言葉をおうむ返ししていた。

 なるほど、顔立ちは確かに似ている。

 それに以前、水谷は母からピアノを教わっていると言っていた。

 なら、ここに居ても何の不思議もないはずだが……。


——なんでこんなに、空気がひりついているんだ?


 親子の対面とは思えない、緊張感あふれる雰囲気。

 舞を見ると、向こうもちょうど俺を見ていたのか目が合った。

 舞の目が「どういうこと?」と言っている。俺は肩を竦めてみせた。


「どこで油を売ってるのかと思ったら、あなたこんなところにいたのね」


 俺の声など聞こえてないかのように、水谷のお母さんは言った。

 それから水谷の背後で見守る俺たちを、胡乱げな目でちらりと見る。


「その子たちはあなたのお友だち?」

「……こっちの相澤が、私の同級生。隣の女の子は、相澤の妹さん」


 水谷が慎重に答えた。

 流石に今は彼氏と言わなかったな。俺もこの状況でそうは紹介して欲しくなかったから、水谷が空気を読んでくれて良かった。


「やっぱりそうなのね。……相澤さん、いつもこの子がお世話になってます」


 水谷のお母さんは俺たちに向き直ると、流麗なお辞儀を見せる。

 でも、それをそのまま受け取っていいものなのかどうか、俺にはまだ判断が付かなかった。この人の本音が見えない。


「兄貴のバカ、頭下げなよ」


 舞に耳打ちされ、慌てて一緒に頭を下げる。

 すると後頭部に、水谷のお母さんの甲高い声が降り注いだ。


「にしても今日はごめんなさいね。この子の酷い演奏でお耳を汚してしまって」

「……酷い演奏?」


 思わず顔を上げて尋ねた。

 大前提を告げるかのように、水谷のお母さんは続ける。


「ええ。感情任せで、正確さもないしテンポも悪い。はっきり言って、レベルの低い演奏だったわ。なのにスタンディングオベーションだなんて……随分耳の悪い人がいたものね。あなたたちもそう思ったでしょ?」

「「……」」


 俺と舞は、思わず顔を見合わせた。

「随分耳の悪い人」が今目の前にいるからというのもあるが、それだけじゃない。


 水谷のお母さんの言っていることが正しいのかどうか、俺や舞には分からない。

 もしかしたら正しいのかもしれない。

 少なくとも俺たち素人より、ピアノについては遥かに詳しいはずだから。


 でも、水谷のお母さんの言う「レベルの低い」演奏が、俺たちの胸を打ったのも事実で。聴衆の心に届く演奏を、酷いと言い切ってしまっていいのだろうか。上手く言えないが、何かが間違っているような気がする。


 水谷の様子を窺うと、俯きがちに彼女のお母さんの背後で佇んでいた。

 さっきまでの楽しそうな雰囲気は見る影もない。


 そう言えば、さっき俺が「いい演奏だったよ」と何気なく褒めた時。


「それ、本心から言ってる?」


 水谷はそう言ってたよな。あれはもしかすると、普段母親から散々駄目出しされてたからこそ、出た台詞なのかもしれない。自信がないゆえに、俺の褒め言葉を皮肉か何かと受け取ったのかも。


 ……やっぱり、こんなのは違う気がする。


「——あの」


 意を決して、俺は声を発した。

 俺たちの反応がないのを見て、帰りかけていた水谷のお母さんが振り返る。


「何かしら?」

「スタンディングオベーションの時……最初に立ち上がったの、こいつなんです」


 そう言って舞を手で示す。

「ちょっ……やめてよ兄貴! 私が恥かくじゃん!」と舞に耳元で囁かれたが、ここはスルーさせてもらう。許せ妹よ。


「……あら、そうだったの。まあ、そういうこともあるわよね。多分、あなたの妹さんは優しい子なのね」


 水谷のお母さんは、一瞬目を丸くした。

 その後ばつが悪いのを誤魔化すように、うふふと笑う。


 何が「そういうこと」なのだろう。

 そんな曖昧な返事で、逃げられるわけにはいかない。


「いえ、別に優しさとかじゃなくて……こいつは心の底から感動したから、拍手したんだと思います。俺も同じ気持ちだったんで」

「……それをあなたが言うのは、おかしいんじゃない? 妹さんの本心は、妹さんに聞いてみないと」


 半笑いのまま、水谷のお母さんが舞に顔を向けた。

 しかし、目は笑っていない。


 俺は舞の方を努めて見ないようにした。

 ここで俺がやつにプレッシャーをかけては意味がない。

 舞には自分の言葉で、自分の思ったことを口にしてもらわないと。


「……わ、私には、難しいことはよく分からないですけど」


 少し間を置いて、舞が辿々しく話し始めた。

 普段は小賢しいやつだと思っていたけど、こういうところは年相応だな。


——でも、流石は俺の妹だ。


「花凛さんの演奏、私はすごく良かったと思いました。なので、あの、別に花凛さんのお母さんが間違ってるとか、そういうのじゃないんですけど……花凛さんが貶されてるのを見ると、ちょっと悲しくなる、と言いますか」

「……なるほど、ね」


 じっと話を聞いていた水谷のお母さんが、少し大袈裟に相槌を打った。

 にこりと計算され尽くしたような綺麗な笑みを浮かべると、軽く頭を下げる。


「あなたたちの前で言うのは、確かにやり過ぎだったかもしれないわね。これからは気をつけるわ。……さ、行きましょう。花凛」

「……うん」


 水谷が頷くと、彼女のお母さんはカツカツとハイヒールの踵を鳴らして、元来た方向へ引き返す。水谷はその後ろをついていくのかと思いきや、ちらっと母親の後ろ姿を確認してから、こちらに小走りで駆け寄ってきた。


「ありがと、二人とも」


 ぺこりと頭を下げると、すぐさま小走りで引き返す。

 しばらくぼけっと水谷の後ろ姿を眺めた後、俺たちは顔を見合わせた。

 咎めるような目つきで、舞が口を開く。


「兄貴ィ……私に嘘ついてたなぁ?」

「さて、何のことだか」

「今更とぼけないでよ。花凛さん、めっちゃ綺麗な人だったじゃん。坊主でガタイが良いとか、まるっきり嘘だったし」

「……もう一人学校にいるんだよ。別の水谷さんが」

「それも嘘だ」

「どうかな」

「じゃあ、兄貴が卒業する時まで、私今の話覚えとくよ。卒業アルバム確認したら、水谷さんが何人いるか確かめられるでしょ」

「……お前、何が欲しいんだ」


 単刀直入に、俺は尋ねた。

 舞がにんまりと笑う。


「ハーゲン、帰りに奢ってよ」

「……また抹茶味か」

「抹茶こそ至高だよ。あっ、あと、チェン素麺の続きもね」

「……」


 俺は舞の要求を無言で呑んだ。

 これでもうしばらく、母さんには水谷のことを言わないでおいてくれるはず。

 舞は面倒なやつではあるが、買収はしやすい。


「にしても、兄貴にあんな可愛い彼女さんがいたとはねえ。このこの〜」

「……彼女ではない」

「……はあ? 花凛さんは、彼女だって自分で言ってたじゃん」

「それは……」


 きょとんとする舞に説明しようとして、ちょっと待てよ、と踏みとどまる。


 俺と水谷の関係って、よく考えたら何なのだろう。


 友達、ではないよな。

 でも、知り合いというほど遠い関係じゃない。

 かと言って、恋人ではないし。

 だってあれだろ? そういうのって、告白か何かしないとだろ?


「……まあ、あれだ。高校生にもなると、色々あるんだよ。お子様には分からないような、複雑な事情がな」


 適当に誤魔化すと、舞が思い切り顔をしかめた。


「ウザッ。やっぱり母さんに言っちゃおうかな」

「ごめんなさいなんでもしますからそれだけはどうかご勘弁を」

「……アハハッ! なんでもするだなんて言われたら、逆に迷っちゃうなー」


 こうして俺は、更なる代償を支払うことになった。

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