第35話 相澤、来てたんだね
発表会が始まった。演奏の順番はおおむね年齢順になっているようで、序盤は小さな子ばかりが舞台に上がる。別に親でもなんでもないが、微笑ましい気持ちで彼らの演奏を見守っていた。
徐々に小学5・6年生や、中学生くらいの子たちの演奏に移る。
そう言えば小学校低学年の頃って、高学年の人がすごく大人に見えたよな。
ましてや中学生なんて大人そのものだった。
それが今ではちゃんと子供に見えるのだから、不思議な感じがする。
「あっ、あれが私の友達」
しばらくして、隣の舞が耳元で囁いた。
ちょうど舞台に上がったのは、赤いドレスに身を包んだ中学生くらいの少女。
ピアノの元へ向かうまで不安そうな顔できょろきょろしていたが、不意にこちらを向いたかと思うと、安心したように微笑む。
まさか俺を見て……なわけないよな。
隣を見ると、舞が笑顔で手を振っている。
なるほどな。危うく勘違いするところだった。
舞の友達が弾いたのは、ドビュッシーの「月の光」。
クラシックに詳しくない俺でも、イントロを聴いただけで分かる曲だ。
演奏は中々良かった。
まあ、素人の俺が偉そうに評価するものでもないんだが、なんというか、普通に聞いてて癒された。お金を払いたいレベルだ。
演奏が終わると、他の子の演奏と同様に拍手が起きる。
ひと仕事終えて安心したのだろう。
舞の友達はほっとした様子で、舞台袖に下がって行った。
上がってきた時と同じように、舞がこっそり手を振っている。
その後またしばらく、様々な演奏があった。
後半へ進むにつれ演奏のレベルが上がるのが、素人目にも分かる。
聴き心地の良さについうとうとしていると、目の覚めるような金髪の少女が、不意に舞台へ上がった。一気に意識が覚醒する。水谷だ。純白のドレスに身を包んだその姿に、聴衆が息を呑むのが分かる。もちろん、俺もだ。
「……妖精みたい」
思わずといった感じで、舞がぼそっと呟いた。
それから慌ててパンフレットで名前を確認し、
「へえ、水谷さんって言うんだ。……兄貴の友達? の人と苗字一緒だね」
と小声で話しかけてくる。俺が何も答えずにいると、
「でも、そっか。兄貴の友達って確か、坊主でガタイの良い男の人だもんね。あの妖精さんとは、流石に赤の他人だよねえ」
自分でそう結論を出して黙り込んだ。
一方の俺はと言えば、水谷と目が合わないようにとひたすら祈っていた。
この間の遊園地で、今日の発表会のことををぼかしていた水谷。
恐らく彼女は今の姿を、あまり見て欲しくないのだろう。
だから今日見にきたのがばれないで欲しい、というのももちろんある。
でも、理由はそれだけじゃない。
よく考えなくても、俺は水谷と舞をまだ会わせていない。
こんなところで初対面となれば、後々舞がうるさくなるのは目に見えている。
しかしその願いも虚しく、水谷の碧い目とばっちり合ってしまった。
水谷がピアノの前でお辞儀する間際のことだ。
ちょうど俺に耳打ちしていた隣の舞に目を移し、水谷は大きく目を見開いた。
そのまま数秒固まった後、思い出したように慌ててお辞儀をする。
ピアノの前に来るまではこれまでの演奏者の中で一番様になっていたのに、急にロボットのようなぎくしゃくした動作になった。
ついさっき目が合ったのも忘れ、心配しながら俺は見守っていた。
椅子に座った水谷が、目を閉じて深呼吸する。
少し間を置いて、目を開けた。凪いだ海のような目だ。
ああ、大丈夫だな。なぜかそう、確信できた。
水谷が両手を鍵盤の上に置く。
曲目は「幻想即興曲」。
最初の一音が奏でられたその瞬間、会場内の空気が水谷に支配された。
俺も舞も、多分他の聴衆も皆、これまでとは比べ物にならないほど演奏に聴き入っていた。そのせいか、水谷の演奏は一瞬にして終わったように感じた。感情の奔流を必死に制御しているような、荒々しいながらも美しい演奏だった。
水谷が最後の一音を弾き終えた。
他の人の時には演奏が終わった後、演奏者が立ってお辞儀をした際に拍手が起こっていたが、水谷の場合は違った。
「ブラボー!」
待ちきれないというように、誰かが立ち上がって拍手をする。
誰かというか、舞だった。他の聴衆の目が一気にこちらへ向く。舞の兄だとは決して思われないように、俺は彼女と逆方向へそっと座る位置をずらした。
ただ、案外みんなノリがいいのか、それとも舞の気持ちが分かるのか、彼女に続いて大きな拍手が起こった。皆の注目が離れたのを確認して、ようやく俺も拍手をする。手を鳴らしていると、お辞儀をし終えた水谷と再び目が合った。
「どういうこと? 後でちゃんと説明してね」
水谷の目ははっきりそう言っていた。怖い。
* * *
「水谷さんって人の演奏、めっちゃ凄かったね!」
水谷の演奏が終わり、ホールを出た後。
市民会館のエントランスで、興奮冷めやらぬ口調で舞が言った。
「あ、ああ、そうだな」
同意しながらも、俺は辺りをきょろきょろしていた。
ここに長居してはいけない。
なぜかは上手く説明できないが、今日水谷と会うのは色々とまずい気がする。
「あの人、絶対プロになれるよ! ねっ、兄貴もそう思わない?」
「うん、なれると思うぞ。でも、今はそれより早く帰らないか? スーパーの特売の時間が、そろそろ終わるんだよ」
方便を使って舞を急かすものの、向こうはきょとんとしている。
「ええ〜、何言ってんの。この後穂乃果ちゃんと会う約束してるんだよ? 兄貴も会ってあげてよ、穂乃果ちゃん感謝してたし」
「なら、俺の分まで舞が感謝の気持ちを受け取ってくれると助かる。『大変良い演奏だった』と、穂乃果ちゃんとやらには伝えておいてくれ」
「いや、自分の口で言ってよ。……ていうか兄貴、なんか焦ってない? 今までそんなに特売にこだわってたっけ?」
舞が訝しげな顔をした。
まずい。舞は喜んで俺の弱みを集中的に突くタイプだ。
この会場に長居したくないとばれれば、まず間違いなく俺が帰宅するのを遅らせる方向に動くだろう。
「別に焦ってはないよ。ただほら、今後は俺の大学受験とか舞の高校受験とか色々あるだろ? 出費はなるべく少なくって、母さんにも言われててさ」
「大学受験も高校受験も、前から決まってたことじゃん。随分今更な感じがするけどなー」
「それはほら、俺の方が今国立一本じゃ厳しいんだよ。私立も射程に入れるとなると、学費が全然変わってくるだろ?」
「でも、兄貴のこの間の成績、確かめちゃくちゃ良かったよね。2位取ったー、って自慢してたの覚えてるよ」
「……」
まさか中間試験の好成績が、ここにきて仇となるとは。
黙りこくる俺に手応えを感じたのか、舞が続ける。
「それとも学年2位でも無理なほど、国立って大変なんだ」
「も、もちろん。お前は大学受験を舐めてる。高校受験とは、はっきり言って重みが違う」
「うわ、そういうこと言うんだ。高校受験の前日、緊張で眠れなかったくせに」
「……緊張で寝れなかったわけじゃないよ。あれは舞が夜中にスマブラやりたいって言うから、仕方なく付き合っただけで
「私がスマブラやりたいって言ったのは、兄貴の緊張をほぐすためだよ。何の理由もなしに受験前日の人をゲームに誘ってたら、ただのヤバいやつじゃん」
「仮に緊張をほぐすためだったとしても、夜中にゲームに誘うって手段を真っ先に思いつくのは、普通にヤバいやつだと——」
「何の話?」
「え? ああ、いや、去年の高校受験の前日の……」
ナチュラルに会話に混ざってきた、聞き覚えのある温度の低い声。
あまりに自然だったので、俺はつい普通に答えかけてしまった。
声のした方に目をやり、思わず言葉を失う。
そこには舞台に上がった時と同様、白いドレスを身にまとった水谷がいた。
間近で見ると、その美しさが際立つ。水谷の周辺だけ、空気までもが光り輝いているようだった。
「相澤、来てたんだね」
水谷が意味ありげな笑みを浮かべる。
しまったな。
これは面倒なことになった。
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