第34話 そう言えば兄貴、来週の日曜って暇?

 遊園地から帰り、部屋でゆったりと過ごしていた夜。


「兄貴ー、私風呂出たから」


 ガチャリとドアが開いたかと思うと、妹の舞が隙間から顔を出した。

 乾き切っていないボブカットの黒髪の上に、真っ白なタオルを乗せている。

 半袖のTシャツに丈の短いパンツという、例によってラフな格好だ。


「……わざわざ教えてくれるのは嬉しいが、ノックくらいしろ」

「別にいいじゃん、私と兄貴の仲なんだし。……それとも何か、妹に見られたらまずいことでもしてた?」

「してないから、早く出てけ」


 しっしと手を振ると、「じゃ、伝えたからね」と舞はドアを閉じる。

 全く、これだから中坊は嫌なんだ。


 ……いや、待てよ。舞は女子だから中坊じゃない。

 女子の場合はなんて言うんだ? 坊主の反対だから、中尼か?


 長い人生の中でも一二を争うレベルでくだらないことを考えていると、再びドアが開いた。再び舞が顔を出す。ノックは相変わらずない。学習能力のないやつめ。


「そう言えば兄貴、来週の日曜って暇?」


 出たよ、この聞き方。暇だと答えた瞬間、逃げられなくなるやつ。

 先にどういう用事があるのか言ってほしい。

 付き合い悪いと言われるかもしれないけど、こっちも暇なら絶対に行くというわけじゃないんだよ。

 

 予定がないのを悟られないよう、俺は慎重に答えた。


「……仮に暇だったとして、何に誘おうとしてるんだ?」

「あ、暇なんだ。なら、一緒にこれ行こうよ。友達からチケット貰ったんだけど、他の友達はみんな忙しいみたいで」

「おい、まだ暇だとは一言も……って、なんだこれ」


 反論するのも忘れ、受け取ったチケットをまじまじと見る。

 チケットは2枚。どちらも同じもので、ピアノの発表会か何かのようだ。

 ただ、プロの演奏会という感じではない。


 ……そう言えば水谷も、ピアノやってるんだよな。


「私の友達で、ピアノ習ってる子がいてさ。今度発表会なんだけど、その子の親が来れないんだって。それで私に、チケットくれて」

「俺たちが行っていいやつなのか、それ」

「良いんじゃない? チケットくれたんだし」

「……」


 俺の認識が間違いじゃなければ、だが。

 発表会って、絶対にそういうものではない気がする。


 多分、関係者しか来ないやつだろ。家族とか。

 俺たちが行ったら浮いてしまいそうだ。

 特に俺なんて、その子の顔すら見たことないし。


 こちらの考えを見透かしたかのような目で、舞が俺を見た。


「兄貴の考えてることも分かるけど……習い事の発表会に自分の親だけ来ないのって、けっこう寂しいと思うんだよね。ほら、私たちはそういう経験あるじゃん?」

「……まあな」


 物心ついた時には、俺と舞には父親がいなかった。

 母さんはいわゆるキャリアウーマンってやつで、仕事が忙しいせいで、授業参観やら何やらに来れなかったことが何度もある。


 でも、俺たちはまだマシだ。そういうのには慣れっこだから。

 舞の友達の場合、そうじゃないのだろう。

 慣れていなければ、余計に寂しく感じるはず。


 ……仕方ない。


「何時からなんだ?」

「……お昼過ぎから! じゃあ、来週はよろしくね!」


 一瞬ぽかんと口を開けた後、舞は花の咲くような笑顔を浮かべた。

 最後に手を振ると、バタンと乱暴にドアを閉めて出て行く。


「おい、そういうところだぞ」


 不思議と気分は悪くない。


* * *


 友達のピアノの発表会は、市民会館内のコンサートホールで行われるらしい。

 というわけで俺と舞は今、電車に乗って隣駅に向かっている。


 二人とも制服だ。流石にドレスコードなんてないとは思うが、発表会というからには、一応晴れ舞台なのだろう。あまり妙な服は着ていけないと考えた結果、制服が一番無難だろうという考えに至った。


 隣駅で降りて左手へ少し歩いた先に、目的のコンサートホールはあった。

 思ったよりしっかりとした建物だ。

 制服で来て良かったな、と舞と顔を見合わせてほっとする。


「友達の出番はいつなんだ?」

「んー? なんか真ん中ら辺って言ってたな」


 舞に尋ねると、そんな答えが返ってきた。

 またアバウトな。そもそも何人が発表するのかすら知らないんだぞ、こっちは。「真ん中」とやらに辿り着くまで、どのくらいかかることやら。


 もしかするとかなり長くなるかもと覚悟していると、幸いにも会場に入る際、パンフレットが配られた。そこには誰がどの順番で弾くかが記されていて、おおまかな時間も書いてある。これは助かった。神に感謝。


 ……って、ちょっと待て。


 パンフレットに記された名前を上から順に見ていったところ、ある地点で俺の目が止まる。一番下、つまり栄えあるトリを飾る発表者。そこに記されていた名前は——。


「水谷?」

「ん、なんか言った?」

「……いや、なんでもない」


 首を振って誤魔化しつつ、改めて同じ箇所を確認する。

 何度見てもその文字は変わらない。

 水谷花凛。幻想即興曲、ショパン。確かにそう書かれていた。


「ほら、やっぱり穂乃果ちゃんはど真ん中だった。兄貴、パンフレット見てよ。私の友達、この穂乃果って子だから。言った通りだったでしょ?」


 舞がパンフレットを片手に何やら喋っているが、全然頭に入ってこない。

 既に俺の思考の大半が、水谷に割かれていた。


 俺は彼女が演奏するのを見たことがない。

 会話の中でも、ピアノの話はあまり聞かなかった。


 踏み込むのが怖かったというのももちろんある。

 ただ、それだけではない。

 ピアノの話をする時、水谷に少し影が差しているような気がしたからだ。


 もちろん、いつかは水谷の演奏を見てみたいと思っていた。

 でも、偶然とはいえこんな形でいいのだろうか。

 そう言えば先週の遊園地で、水谷は来週「アレ」があると言ってたような。

 わざわざぼかしたのは、やはり演奏を見られたくなかったからじゃないか?


 ……いや、これ以上考えても仕方がない。

 とにかく今日は水谷に見つからないよう、ひっそりと演奏を見守るのみ。

 会場内には他にも沢山人がいるし、照明も暗いから流石に見つからないだろ。


「おーい、兄貴どしたー? 大丈夫ー?」


 いつの間にか、舞が目の前で手を振っていた。

 頭を軽く叩いてやると、「うわ、暴力だ! パワハラだ!」と喚く。

 そんな彼女を放置しつつ、俺は空いている座席に座った。

 文句を言いながらも、舞が隣に座る。


 さて、とりあえず寝ないように頑張ろう。

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