第32話 改めて、よろしく

 翌朝。

 もう水谷との待ち合わせはないはずだから、早く起きる必要もない。

 でも、時間が身体に染み付いてしまっているようで、同じ時間に目が覚めた。


「くそっ……」


 そんな自分を忌々しく思いつつ、俺は布団から出てリビングへ向かう。


 制服に袖を通し、「行ってきます」と声を掛けて家を出た。

 駅へ向かう足取りは、自然と重くなる。


 元々水谷はもっと早い時間の電車に乗っている。

 だから、駅前に水谷がいるはずない。もう俺を待つ必要もないし。

 そもそも、昨日俺の方から「待たなくていい」と言ったわけで。


 なのに俺は、もしかしたらって期待している。

 最高にダサいやつだ。


 駅に近づくにつれ、だんだん前を向くのが怖くなる。

 いつもならあの支柱に水谷が寄りかかっているが、今日は金髪の少女が一人。

 うちの高校の制服を着て、スマホをいじっている。


「……えっ」


 ちょっと待て。

 金髪の少女って……あれはどう見ても、水谷じゃないか? 

 

 思いがけない光景に、俺は目を擦った。

 でも、目の前の景色は変わらない。

 確かに水谷花凛がそこにいる。昨日までと変わらない姿で。


 その時、水谷がスマホから顔を上げた。

 呆然と彼女を見つめる俺と目が合う。

 水谷の目は、いつもより少し赤くなっていた。


 一瞬、周囲の音が消えた。

 世界に俺と水谷だけが取り残されたような感じ。


 時間すら止まり、数秒にも永遠にも思われるほどの時間が経った後。

 赤らんだ碧い眼で、水谷が俺を睨みつけた。

 途端に周囲の雑踏の音が戻ってくる。


「何、昨日のLIME」


 水谷が歩み寄ってきた。

 彼女の整った顔が間近にあると、妙な迫力がある。

 俺は思わず目を逸らした。


「……何って、あのまんまだよ。山本がもう水谷に付き纏わないのなら、俺が水谷の彼氏のふりをする意味がなくなる。前にも言っただろ?」

「でも、山本が約束を守るとは限らないよね」

「山本は約束を破るようなやつじゃないって、里見は言ってたぞ」

「相澤は私より、里見の意見を信じるんだ」

「……あのなあ、そういうことじゃないだろ」

「じゃあ、どういうこと」

「山本についてなら、水谷より里見の方が知ってるはずだろ? あいつら幼馴染って言ってたし。だから里見の言葉には、それなりに信憑性があると思っただけだ」

「……でも、里見は山本が好きなんだよね。なら、絶対贔屓目が入ってると思う」

「それは……」


 言われてみると、そうかもしれない。

 昔からの付き合いなら、俺たちより正しい評価を下せるはず。

 そんなのは俺の思い込みに過ぎないわけだ。


 言葉に詰まる俺に、水谷が畳み掛けてくる。


「ていうか、相澤昨日全然返事くれなかったよね」

「……何か送ってくれてたのか?」

「うん。電話もかけた。……まさか、気付いてなかったの?」

「…………」


 LIMEを送った後、びびって電源をOFFにしたなんて言えない。


 冷や汗を流す俺を、水谷が半眼でじっと見つめてくる。

 しばらく耐えていると、水谷はやがて横を向き、ふっと息をついた。

 少し乱れた金髪をさらりと耳にかけ、横目でこちらを見る。


「ごめん、相澤。本当はこんなこと、言いたいわけじゃなかったのに。相澤と顔を合わせると、調子が狂う」

「それは別に、良いんだけど」

「……私と付き合うふりを続けるのは、相澤的にはやっぱり負担になるよね」

「負担になるなんて言ってないよ。俺はむしろこの関係を続けるのが、水谷の負担になるんじゃないかと思って――」

「私? なんで私の負担になるの。そもそも私から相澤に頼んだことなのに」


 水谷がきょとんとした顔をする。


「水谷に好きな人ができたら、俺が邪魔になるって前言っただろ」

「好きな人はできないって、私も前に言ったと思うけど」

「でも、絶対ないとは言い切れない」

「ううん、言い切れる」

「なんでだよ」

「それは……相澤には言えない」

「……はあ?」


 そこで理由を言わない意味が分からん。


 俺の反応に構わず、水谷は続けた。


「とにかく、私は相澤とこの関係を続けるのを全く負担だと思ってない。で、相澤も負担だと思ってないなら、この関係を続けても問題ないんだよね?」

「……そういうことに、なるのか?」

「なるよ。それに、山本が約束を守ってくれるかもまだ分からない。だから私は、もうしばらく相澤に彼氏のふりを続けてほしいと思ってるんだけど……だめ?」


 水谷が上目遣いに俺を見る。

 前から薄々気付いてたけど、俺は水谷のこの目に弱い。


「……駄目とは言わないけど」

「ほんと? 嬉しい」


 俺の答えに、水谷は安心したように息をついた。

 それから鞄の中をごそごそして、1枚の紙切れを取り出す。


「はい、これ」

「……どうも」


 紙切れには「1回だけ何でも頼める券」と丸っこい字で書かれていた。

 恐らく水谷の直筆だろう。

 勉強会の時に彼女の字を見たから、何となく覚えている。


 思わず水谷の顔をまじまじと見ると、今度は向こうが目を逸らした。


「これまでのお礼。自分から何が欲しいとか、相澤はあんまり言わなさそうだから、とりあえずこれを渡しておけばいいかなと思って」

「……ぷっ」

「っ!? なんで笑うの」

「だって、水谷のキャラでこういうの作ってくるとは思わなくて……」

「……そんなにおかしいかな、それ」


 今更恥ずかしくなってきたのか、水谷が頬をほんのり赤らめた。


「やっぱりなしで」

「いやいや、せっかくだし貰っとくよ」


 紙を回収しようと手を伸ばしてきたので、水谷から紙を遠ざける。

 水谷が俺を睨んだ。

 

「あんまり変な頼みごとはしないでよ」

「変な頼みごとって、例えば?」

「……エッチなこと、とか」

 

 ためらった末、水谷は絞り出すように言った。

 その言い方の破壊力が強過ぎて、気付くと俺は、鸚鵡のように同じ言葉を繰り返していた。


「エッチなことは、駄目なのか」

「……2度同じことを言わせないで」


 水谷がローファーで、足のつま先を踏みつけてくる。

 思ったより痛かった。

「ごめんなさいごめんなさい!」と慌てて言うと、ようやく足を解放してくれる。


 でも、案外今のもありだったかも。

 もしかして俺、Mの才能があったのか?


「じゃ、契約は延長ということで……改めて、よろしく」


 水谷が手を差し出してきた。

 俺はその手を握り返す。

 彼女の手のひんやりとした温度と、柔らかな感触が伝わってくる。


「……ああ、よろしく」


 この関係が、いつか終わるものだとしても。

 偽物で、正しくない関係だったとしても。

 今だけは本物なんじゃないか――そんな錯覚を覚えてしまうほどに……水谷との握手は、甘く心地よく思えた。

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