第26話 私今、こう見えてけっこう怒ってるんだよ

 翌朝。


「あー、あんたこれ風邪引いてるわね。今日は家で寝てなさい」


 体温計の画面に表示された数字を見て、母さんが言った。

 昨日の激しい雨の中、走って帰ったのが祟ったらしい。


 でも、テストまであと1週間なのだ。

 山本との勝負がある以上、今日休む訳にはいかない。


「い、いや、俺は休まな――」

「何言ってんの。こんなに体温上がってるのよ?」


 母さんが体温計の画面をこちらに見せてきた。

 38.6度。数字を見た瞬間、一気に身体がだるくなったような気がする。


 ベッドにぐでんと倒れる俺を、母さんが冷たい目で見てきた。


「全く、あんな雨の日に傘無しで帰ってくるから……馬鹿じゃないの」

「おっしゃる通りです……」

「……とにかく、今日は家出ちゃ駄目。私は仕事だし舞も学校だからあんた一人になるけど、大人しくしてるのよ? 分かった?」

「……へーい」


 俺の返事を聞いてふんと鼻を鳴らすと、母さんは支度して家を出て行った。

 続いて、舞が部屋に顔を出した。

 にやついた顔でドアの隙間からこちらを覗いている。


 彼女が着ているのは、つい2年前まで俺も着ていた制服だ。

 あ、もちろん、スカートは別だけどな。


「やーい、怒られてやんの」

「うるさいな。お前も朝練だろ? 早く行けよ」

「カワイイ妹が心配してあげてるのに、その言い方はないんじゃないのかなー?」

「少々騒がしくいらっしゃいましてよ? あなたも朝練がお有りのようですし、早く行かれてはいかが?」

「……」


 ムッとした顔で、バタンと舞がドアを閉めた。

 続いて玄関扉の閉まる音が、やけに虚しく響く。

 さて、こうして俺一人になったわけだ。 


「今日の分のノート、どうするかな……」


 しんと静まり返った部屋の中に、独り言が響き渡る。

 一人でいることには慣れているつもりだったけど、最近は人と行動することが多かったせいか、少し寂しく感じてしまう。


 それもこれも、全部――。


「水谷のせいなんだよな……」


 そう言えば、水谷とは結局上手く話せなかったな。

 自分ではそんなにダメージを受けてないと思ってたけど、意外と堪えてたのかもしれない。こうして風邪で弱っている時に、わざわざ思い出すくらいには。


「だから、仲良くなるべきじゃなかったのに……」


 言葉が天井へ、すうっと吸い込まれてゆく。

 おでこに貼られた冷却シートが、ひんやりとしていて気持ちいい。


 ……。

 ……………。


 まずい、今日は寝ちゃいけない。

 母さんには寝てろって言われたけど、勉強しないとまずいんだよ俺は。


 頬を何度か叩き、無理やり身体を起こした。

 立ち上がって椅子に座り、ノートと教科書を開く。

 このコンディションでは、数学などの頭を使う教科はできない。

 暗記系の科目を中心に、今日は進めよう。


 それで、山本に勝たないと――。


* * *


――ピンポーン。


 勉強中、ふとそんな音がして我に返る。

 時計を見ると、今は午後4時手前。

 なんだかんだで、あれから9時間近くやっていたようだ。


 ……9時間、で合ってるよな。

 舞が出かけたのが7時過ぎで、午後4時は16時ってことだから……。


 風邪と疲れのダブルパンチのせいか、いつもよりぼやけた頭で考える。

 すると、ピンポーンという音が再び家中に響き渡る。


 この音はインターフォンだ。

 インターフォンが鳴ったということは、誰かが我が家に来ている。

 そしてこの家には今、俺以外に住人がいない――。


 ……あ、俺が出なきゃいけないのか。


「はいはい、ただいま」


 だるい身体を椅子から起こし、玄関へ向かう。

 どうせ宅配便か何かだろう――そう油断してドアを開けると、思いもよらない光景が目に入った。


「……え?」

「おはよう、相澤。元気してた?」


 碧い目をした金髪の少女が、目の前でビニール袋を掲げている。

 眼を擦り、改めて確認しても変わらない。

 水谷花凛。俺に付き合うふりを頼んできた子だ。

 制服姿なのを見ると、学校帰りに寄ってきたというところだろうか。


「元気、だけど」


――何でいんの? そもそも、家教えたっけ?


 色々な疑問が湧き出てきて、何から聞けばいいか分からない。

 俺の表情を見て何かを察したのだろう。

 水谷がスクールバッグを何やらごそごそすると、分厚めのファイルを取り出す。


「今日の授業のノートのコピーと、配られたプリント持って来た」

「あ、ああ、ありがとう……」

 

 戸惑いながらもファイルを受け取る。

 顔を上げると、水谷の宝石のような目と再びぶつかった。


「家、どうやって分かったんだ……?」

「狩野先生をおど……じゃなくて、頼んだら教えてくれた」

「今、脅すって言いかけ――」

「言ってないよ。逆に相澤は、私が人を脅すような人に見える?」


 水谷がにこりと微笑んだ。

「見えない」と俺は答えるしかなかった。

 ちなみに脅すという言葉の実例を挙げるなら、今水谷のやったことそのものだ。


 水谷は自然な動作で、ローファーを脱ぎ始めた。


「家、上がっていい? 立ち話もなんだし」

「……それ、普通上げる側が言う台詞だけどな」

「細かいことはいいよ。で、どうなの。駄目なの」

「いや、駄目とは言わないけど……」


 ローファーを脱ぐ手を止め、こちらを見上げる水谷を見返す。


 今日の彼女は、昨日とは打って変わってぐいぐいくるな。

 何か心境の変化でもあったのだろうか。


「……ピアノはいいのか。いつもは毎日、練習あるじゃないか」


 代わりにそう尋ねると、水谷は動きを再開した。

 ローファーをつま先が扉の方を向くように揃えながら、こちらを見ずに答える。


「大丈夫。テストがやばいから勉強してくるって、言っておいたから」

「でも、水谷のお母さんって、ピアノには厳しいんじゃなかったか?」

「……お母さん、見栄っ張りなんだ」


 水谷の手が、一瞬止まった。


「答えになってないような気がするが」

「自分の娘が赤点取ってくるのを、許せないってこと」

「……なるほど」


 水谷と彼女の母親の関係は、思ったよりも複雑なのかもしれない。

 以前はピアノについて「言われた通りにやってただけ」みたいなこと言ってたし、何か思うところがあるのだろう。


 立ち上がってこちらを振り返ると、水谷が鞄からまた何かを取り出した。

 昨日貸した、俺の折り畳み傘だ。


「はい、これ」

「ああ、サンキュ……ってまさか、これを返すためだけに?」

「違うよ。……今日はどうしても、相澤と話したかったの」

「……へえ。そりゃ、彼氏としては嬉しいな」


 冗談めかして言うと、水谷が真顔でじっとこちらを見つめてくる。

 彼女の顔は彫刻のように整っているので、こういう時の迫力が凄い。

 俺は思わず、一歩たじろいだ。


「あのね、相澤……私今、こう見えてけっこう怒ってるんだよ」

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