第24話 見損なったぞ、秋斗!

 翌日の朝。

 俺は英単語帳を片手に、長山駅に向かっていた。

 駅に近づくと単語帳をしまう。

 水谷がいつも通り、駅の支柱に寄りかかって待っていた。


 おはよう、と挨拶を交わすと、水谷が早速俺の髪に目をつけた。


「どうしたの、その髪」

「……変か?」

「ううん、変じゃないよ。むしろ……」

「むしろ?」

「……何でもない」


 水谷は首を振った。

「行こ、早くしないと遅れちゃうから」と歩き出したので、後を追う。


 階段でホームに上がり、ちょうどやって来た電車に乗った。

 下り方面なので、朝とはいえ比較的空いている。

 また単語帳でも出して勉強しようかと迷ったが、今は水谷がいるからやめた。


 ……昨日のことを水谷に話すべきかどうか、あれから悩んでいた。


 水谷は多分、勝負のことを聞いたら責任を感じるだろう。

 例え俺が、自分の責任で受けたことだと言い張ったとしても。

 なら、水谷には言わないまま勝負して、勝った方が良いんじゃないか?

 彼女に心配をかけたくないし。


 それに、山本との勝負を話すとなると、必然的に里見と出かけたことまで話さなきゃならない。俺は水谷の本当の彼氏ではないから、別に悪いことをしたわけじゃないはずだけど……なぜか少し後ろめたい。


 こんな気持ちを抱くくらいなら、最初から里見と出かけるべきでなかったかも。 

 あの時はそこまで考えが及ばなかったが。


「あ、そうだ。ごめん相澤。私今日、放課後の会議に参加できない」


 水谷の声で、現実に引き戻される。


 そう言えば会議なんてあったな。

 なんでも学級委員全体で集まって、年に何回か話し合うそうだ。

 何を話し合うかって?

 それは俺もよく知らないが、多分大した話じゃない。


「ピアノか?」


 そう尋ねると、水谷はこくりと頷いた。

「了解」と短く答えると、まもなく別の話題に移った。


 結局電車内では、他愛もない会話に終始した。

 昨日の出来事を明かさないまま、学校の最寄り駅でホームへ降りる。

 俺が水谷の隣を歩く光景にひと月弱で皆慣れたのか、以前ほど視線は感じない。


 しかし、教室はまた別だった。

 入ってきた俺と水谷を見てクラスメイトが一瞬静まり返ってから、徐々に喧騒が大きくなる。何人かはまだ、こっちをちらりと見てひそひそ話している。


「「……?」」


 こんな空気、一緒に登校し始めた日以来だ。

 俺と水谷は顔を見合わせ、首を傾げた。


* * *


 3時間目の数学が終わった後。

 ベクトルの1次独立がどうこうという話を頭の中でぼんやり反芻していると、不意に斜め前の扉がガラリと開いた。ドカドカと大きな足音を立てて修二が入ってくると、俺の机をドンと叩く。


「見損なったぞ、秋斗!」

「……悪い、何の話だ?」

「何の話って……自分の胸に手を当てて、よく考えてみろ!」


 修二のあまりの剣幕に、俺は大人しくやつの指示に従った。

 胸に手を当て、ついでに目をつむって考える。

 ……うん、マジで心当たりはないな。


「やっぱり見当もつかないな」

「……そうか、あくまでとぼけるつもりなんだな。じゃあ、俺の口から言おう。秋斗お前……二股かけてるだろ」

「……え?」


 ちょっと待て、どういう……って、そうか。

 俺はなぜ見落としていたのだろう、こんなにも重大なことを。

 

 水谷との関係を偽物だと分かっているのは、俺と水谷と、ついでに小倉だけ。

 つまり周囲から見れば、俺は紛れもなく水谷の彼氏だ。

 その俺が里見と出かけて、そこを誰かに見られたとしたら……当然山本以外のやつも、「そういうこと」だと勘違いしてもおかしくない。


 朝教室に入った時の変な空気の理由も、これで分かった。

 噂をすればというタイミングで、俺と水谷が教室に入ったからだろう。


 窓際後方の水谷の席を伺うと、今は彼女はいないようだ。

 教室中央に目を移すと、里見と目が合った。

 里見は気まずげに目を逸らす。


 直後、ポケットの中のスマホが振動した。

 見ると、里見からのLIMEだ。


『今は周りに何言っても無駄。とにかくあたしたちは話さない方がいい』


 俺は心の中でため息をつくと、スマホをしまって修二に向き直った。


「その様子を見ると、どうやら心当たりがあるみたいだな」


 修二が腕を組んでこちらを見下ろす。

 俺は静かに言った。

 

「そう決めつける前に、ひとまず俺の話を聞いてくれないか。修二」

「……まあ、親友の誼だ。弁解くらいは聞こうじゃないか」


 怒っている時でも相手の話を聞けるのは、修二の美点だ。

 俺は水谷と付き合っているのが嘘、というところだけは伏せて、里見と出かけるに至った理由を全て話した。


「……なるほど」


 話を聞き終えた修二が重々しく頷くと、組んでいた腕を解いた。

 これは「嘘をつくな!」と殴られるのかな。

 俺が覚悟を決めたその時、


「やっぱりな! 秋斗が二股なんてするはずないって、俺は思ってたんだよ!」


 修二が笑顔で言い放った。


「……」


 お前、よくもぬけぬけと。

 さっきまで完全に、俺を疑ってたじゃないか。


 修二はさっきまでの態度から一転し、「信じて良かったよ、お前のこと!」などと背中を叩いてきた。しかもかなり強い力で。痛い痛い痛い、加減というものを知ってくれ。


 とにかく、修二の誤解はなんとか解いた。

 そこへ今度は小倉まで、修二と同じく斜め前の扉から入って来る。


「見損なったよ、相澤くん!」


 ついさっき見たな、この光景。流石はカップルだ。


「おいおい、菜月。お前まで噂を信じちゃ駄目だろ。秋斗は親友なんだから」

「……」


 だから修二は他人のこと……もういいか。


 怒りに目を吊り上げる小倉に、修二にしたのと同じ説明を繰り返した。

 ただ、修二とは違い、小倉はどこか納得いかなそうに首を傾げる。


「うーん、事情は分からなくもないけど……相澤くんが丸1日、里見さんと過ごしたのは事実なんだよね」

「ああ、そうだな」

「それ、やっぱりまずくない? 花凛ちゃんには説明してるんだよね?」

「いや、説明はまだ……」


 俺の答えに、修二と小倉の顔色が変わる。

 修二は憐れむような表情、小倉は咎めるような表情だ。


「秋斗……お前終わったな」

「相澤くん、悪いことは言わないから、今すぐ説明した方がいいよ。花凛ちゃん、絶対怒ってるとおも――」

「怒ってないよ」


 ふと二人の背中側から声がした。

 修二たちが振り返り、「……水谷」「……花凛ちゃん」と絶句する。

 いつの間にか近づいてきていた水谷が、教室では珍しく笑みを浮かべていた。


「一度他の女子と出かけたくらいで、別になんとも思わないから。相澤とは何度もデートしてるし。ね、相澤?」

「あ、ああ」


 何度もデート……存在しない記憶だな。

 しかし、ここは水谷に合わせておいた方がいい。

 俺は首を縦に振った。


 水谷はそれだけ言うと、すたすた自分の席へ戻って行った。

 彼女の後ろ姿をぼけっと眺めていると、修二が水谷には聞こえないくらいの声で言う。


「良かったな、秋斗。水谷、怒ってないってよ」

「シュウくん……そんなわけないでしょ」


 小倉が呆れたように息をついてから、改めて俺に向き直る。


「相澤くんたちにも色々あるのは分かるけど……早いうちに花凛ちゃんと、腹を割って話した方が良いと思う。人の気持ちって、ころころ変わるから」

「ごめん、菜月。それ、何の話?」


 首を傾げる修二を無視して、小倉が試すような目で俺をじっと見つめる。

 人の気持ちはころころ変わる……か。

 正直、小倉が何のことを言ってるのか俺にはよく分からない。

 でも、彼女はこの学校で、いや、この世界で唯一、俺と水谷の関係に勘付いている人だ。何かしらの重大な意味を、小倉の言葉は含んでいるような気がした。


「分かった、今日のうちに話す」

「……よし」


 俺が頷くと、小倉は満足げな表情になった。

 そのまま修二の手を引くと、教室を出て行こうとする。


「この話はおしまい。そろそろチャイム鳴るし、シュウくんも教室に戻ろ?」

「ちょ、ちょっと待て。え、俺には何の説明も無し?」

「うん、なし」

「えー! そりゃないだろ。俺だって秋斗の親友なのに、なーんか二人だけで分かり合ってるみたいな空気出しちゃってさ。つまんねえー」

「シュウくん、今日勉強教えてあげる。部活ないでしょ?」

「マジで!? やったぜ!」


 扉の向こうで、修二たちの会話が遠のいていく。

 修二はちょろいな。小倉も小倉で、完全にあいつを手懐けてるし。


 ……でも、二人の分かりやすい関係が、今は少しだけ羨ましい。


 水谷の席をそれとなく見やる。

 彼女は頬杖をついて、窓の外を眺めていた。


 水谷は今、何を考えているのだろう。

 俺には全く分からなかった。

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