第8話 実は馬鹿なのか? 水谷って

 終礼が終わると、俺は教室を出た。

 と言っても、今日はこのまま一人で帰るわけにはいかない。

 水谷に少しばかり用があった。

 向こうが相手してくれるかは分からないが。


 下駄箱でのろのろ靴を履き替えていると、水谷がやって来た。

 軽く頭を下げると、向こうも同じような反応を返してくる。

 先に靴を履き替え終えた俺は、昇降口を出て水谷を待った。


 後を追うように水谷が出てくる。

 俺がすぐそこにいたのが意外だったのだろう。

 水谷は一瞬目を丸くしてから、いつもの感情の見えない顔に戻った。


「どうしたの」


 水谷に尋ねられて初めて、俺は現状をふと客観視できた。

 これ、山本とやってること変わらなくね?

 そう気付くと、途端に羞恥心が湧いてくる。


「まあ、別に大した話じゃないんだけど、聞きたいことがあって」

「じゃあ、また一緒に帰る? 私もちょうど、相澤と話したいことあったし」

「……良いのか?」

「良いも何も、方向一緒でしょ。話すなら一緒に帰る方が、合理的だと思う」

「それはそうだけど……」


――山本の誘いは頑なに断ってたのに、俺にはそんな感じで大丈夫なのか?

 

 と思わなくもないが、今はむしろこの方が都合がいい。

 頭を振って余計な考えを振り払うと、俺は口を開いた。


「……いや、水谷の言う通りだな。じゃあ、一緒に帰るか」

「……うん」


 俺の返答に、水谷はわずかに微笑んだ。


* * *


 つい1週間ちょっと前も、水谷と一緒に通った道を行く。

 まあ、と言っても普段の通学路と何ら変わりないんだが、そこに人が一人加わるだけで、何かが決定的に違う気がするから不思議だ。


「それで、聞きたいことって何?」


 水谷が先に沈黙を破った。

 俺はちらりと彼女を見つつ言った。


「この間のことなんだけど……里見に嫌がらせされる心当たりはないって、水谷は言ってたよな。あれ、本当か?」

「本当だよ。心当たりがあったら言ってる」

「へえ……でも、もう隠す必要ないぞ。俺、知ってるから」

「……どういうこと?」


 水谷が足を止めた。怪訝な顔をしている。


「あいつが水谷に嫌がらせしてた理由を、本人から聞いたってこと」


 さて、俺に言えるのはここまでだ。

 なぜって、これでも一応、好きな人をばらさないと里見とは約束している。


 水谷に心当たりがあると俺は確信を抱いているが、何事にも絶対はない。

 もし本当に水谷に心当たりがないのならば、ただ里見の好きな人を彼女にばらすだけで終わってしまう。だからこの先は、水谷の口から聞くしかない。


「……そっか。なら、本当に相澤に隠す必要はないんだね」


 肩の荷が降りたように、水谷はふっと息をついた。

 それから、柔らかく微笑む。


「どうやって里見から聞き出したの」

「いや、聞き出したというか……たまたま立ち聞きしただけだよ。結果オーライ、みたいな?」

「……なるほど、結果オーライ」


 水谷がおうむ返しする。

 ただ、俺はまだ肝心なことを聞いていない。


「それで、水谷はなんで、心当たりがあったのにしらを切ったんだ?」

「……なんでだと思う?」

「……まだとぼけるつもりかよ」


 わざとらしく首を傾ける水谷に、俺は思わず顔をしかめた。

 水谷が何かを誤魔化すようにふっと微笑んでから、正面を向いた。


「里見にはムカついてたけど、まだ大したことされてないから良いかなって思ってた。私にも原因がないわけじゃないし。それに……抵抗するにしても、恋心を他の人にばらすのは、弱点を突くみたいで嫌だったから」

「……」


 俺はため息をついた。

 向こうは悪意を持って攻撃してきてるのに、当の水谷が相手の心配をしてたのでは世話がない。聞いてるだけで、こっちは苛々してくる。


「……でも、そうか。通りで山本に対しては、強く拒絶してたわけだ」

「うん。他に問題を解決する手段が、私には思いつかなかった」


 水谷が頷く。その横顔は、相変わらず彫刻のように美しい。


 俺は最初、彼女のこの顔にどこか冷たい印象を抱いていた。

 でも、今は違う。水谷は、多分馬鹿だ。


「実は馬鹿なのか? 水谷って」

「……なんでそんなこと言うの」


 心の中で思うだけじゃなく、はっきりと口にした。

 水谷が形の良い眉をひそめる。


「だって、水谷の対応は優しすぎるよ。しかも損するタイプの優しさだ。情けは人の為ならずなんてことわざもあるけど、水谷の情けが巡り巡って返ってくるとは思えないな。そもそも向こうが気付いてないんだから」

「……相澤は人のこと言えないと思う」

「……そこで俺の話になるのはおかしいだろ。俺はそもそも優しくない」

「わざわざ私のために、学級委員に立候補してた」

「水谷の場合と違って、相手に伝わってるけどな」

「じゃあ、去年電車内で、おばあさんに席を譲った時は?」

「……ごめん、何の話?」


 思わず水谷をまじまじと見つめる。

 恐らく口が滑ったのだろう。

 水谷は「しまった」という顔をした後、俺からゆっくり目を逸らした。

 気のせいか、彼女の頬は少し赤らんでいるようにも見える。


 しばしの間、沈黙が流れた。

 どうやら水谷は、今のミスをなかったことにしたいらしい。

 でも、こちらもそうはさせたくない。

 従って、水谷との我慢比べが続いた。


 そのまま数十秒は経っただろうか。

 駅に着き、改札を抜けたその時、水谷がようやく敗北を認めた。

 ため息をつくと、重たげに口を開く。


「……高一の秋頃だったかな。相澤、電車内でおばあさんに怒鳴られたことがあったでしょ」

「……そう言えば、あったなそんなことも」


 電車内で他人に怒鳴られるなんて経験は滅多にないから、記憶を探ると流石に覚えていた。とは言え、半年前の記憶。本人の俺ですら、当時の映像が鮮明に浮かぶわけじゃない。なのに――。


「なんで水谷が、それを知ってるんだよ」


 水谷がちらりとこちらを見た。


「あの時私、相澤の向かいに座ってたから」 

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