第10話 多難なスタート

  「翔君、はや!」と真紀が言った。

聞こえたのか聞こえなかったのか分からないが 翔は厨房に近づいて来た。

そして、肇をジッと見ると

「パリスに行ったのか…… 肇とか言ったな、お前、厨房が似合うじゃないか、タマ子さんと真紀さんの手伝いをしたら良いんじゃないのか?」

「翔君、何を言ってるの?」真紀が口を挟んだ。その時、食堂にオーナーが入ってきた。

「あらあら、はじめちゃん、ここにいたの? あらー素敵!その髪型似合うじゃない

いいわー、イケメン度が増したわねえ、それにしても、ここで何をしているの?もう

お腹が空いたの?」

「はじめちゃん、私達を手伝ってくれていたんです。」

「そう、いい子ねえ、あっ、翔もいたの?ちょうど良かった。肇を翔のアシストに

付けるから ちゃんと指導してやってね。」

「別に俺じゃなくてもいいんじゃないですか?」

「何よ、嫌なの?新人の指導はナンバーワンがやるものよ、頼むわよ。」

「……はい……」翔は重たい返事をした。

「翔さん、よろしくお願いします。」肇は翔に深々と頭を下げた。

「はい、オッケー!私、お腹が空いちゃったの。もう準備が出来ているのなら食べてもいいかしら?」オーナーが厨房の方を向いてそう言うと

「はい、どうぞ。」真紀はトレーの上に並べた生姜焼き定食をオーナーに手渡した。

「えっ?オーナーもみんなと一緒にここで食べられるんですか?」

肇は驚いて聞いた。

「そうよ、私もここで暮らしているのよ。玄関の隣の部屋が私の住処。このハイツの

管理人だからね。もちろん、みんなよりはかなり広い部屋よ。それにタマ子さんと真紀ちゃんのお料理が美味しいから最高よ。」

オーナーは自身の贅沢はしない。全て店とホスト達のためになる事に使っている。

肇は、この人本当に凄い人なんだな、と思った。

「はじめちゃん、早く食べてチョット早めにお店に行きなさいよ。拓郎に段取りを教えるように言っておくから、」

「はい、」

「じゃあ、早めに食べなきゃね。」

そう言って、真紀が定食を乗せたトレーを手渡してくれた。

「ありがとうございます。」

その様子を見て 翔が面白くなさそうな顔で「俺のは?」と言った。

「はい、翔君もどうぞ。」とタマ子さんが定食を渡してくれた。不満げにそれを受け取ると肇の目の前に座り、肇を睨みながら食事を始めた。

肇はどうしたら良いのか分からず、伏し目がちに食事をする事しか出来なかった。

隣のテーブルでは、オーナーがふたりの様子を面白そうに笑って見ていた。


  ノアの方舟が店を開ける時刻になった。ドアボーイはドアの前に立ち、ホスト達は扉の内側に12人が6人ずつ両脇に並び客を迎える。その奥に支配人が、そしてその

両脇にボーイが二人待機している。

肇はホストの一番後ろに テーラーから届いたばかりのブラックスーツを着て並んでいる。スーツを着て、新しい靴を履いて鏡に写る自分の姿を見た時、初めて自分を

カッコイイと思った。

「はじめ、かっこいいじゃん、」と拓郎だけが褒めてくれた。他のホスト達は見ても 素知らぬ顔をしている。どうもライバル視されているようだ。

この早い時間に来店する客は、50歳を過ぎているであろう貫禄のある奥様方が多い

オーナーの推測では、大企業の重役である夫の帰りが毎晩遅く、帰りを待つ間自分も

楽しもうとやって来るのではないかと・・・したがって帰られる時は。むやみに引き留めてはいけないとホスト達には伝えられている。次回も気持ち良く来て頂けるように待っている気持ちを伝えることが大切と教わっている。

その後、8時頃になるとキャリアウーマン風の女性客が来店して来る。櫻子もその一人だ。

「いらっしゃいませ。」 ホスト達が声を揃えて客を迎えた。

三人連れの奥様方だ。中の一人は初めての来店のようで、「わあ~素敵ねえ~」と

感嘆の声を上げている。

「こちらへどうぞ、」ホストの1人がエスコートして席へと導き、ボーイもサポートする。

「佐々木様、ご指名はございますか?」とリーダー格の女性に案内したホストが聞いた。 「あなたと拓郎君がいいわ。」

「かしこまりました。お飲み物は何になさいますか?」

「始めはシャンパンがいいわね、みんなも良い?」 「ええ、」

「分かりました。」 そばにいたボーイがすぐに動き、カウンターのバーテンダーに伝えた。拓郎も呼ばれて席に着いた。

別のテーブルにも客が座り、ホスト達は働き始めていく。

肇を含む5人のホスト達は まだ客を迎えるために扉の近くに控えていた。その中に

翔もいた。 ドアノブが回ってカチッと音がすると、ドアボーイによって開けられた扉から入って来たのは櫻子だ。

「いらっしゃいませ。」

5人が声を合わせたが 翔は一際元気な声で、そして飛び切りの笑顔で迎えた。

「櫻子さん、今日は早いですね。嬉しいなあ、」翔の言葉をよそに櫻子は

「新人さんがいるんでしょ?」と言った。

「えっ?」意外な言葉に翔は驚いた。櫻子は周囲を見回して肇を見つけると

「肇君、わあ~やっぱりカッコ良くなってる~ どんな風になっているのか早く見たくて 会食を早めに切り上げて来たのよ。さすがチーフは上手よね、」

「櫻子さん、肇をご存知なんですか?」状況が理解できない翔が尋ねた。

「昼間、パリスで会ったのよ。ねえ、肇君、席に案内して、」

翔はイライラした様子でチョットむきになって言った。

「肇は僕のアシストですから、僕が案内します。」

「そうよね、今日デビューの新人だものね。」

何かウキウキしている櫻子を見て 翔は非常に面白くない。それを感じて肇は消えてしまいたいと思っていた。

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