第9話 高級店で初めての買い物

  次は靴だ。「リンカーン」と言う店だとテーラーの店主が言っていたのを思い出 し、美容室の前を少し後退りして左右を見ると右手にあった。 やはり高級店に見える店構えだ。 普通なら肇は絶対に入る事のない店。しかし、今日は覚悟を決めて

入らなければならない。店の入り口に立つと自動ドアがスーと開いた。

それと同時に店の人が「いらっしゃいませ。」と迎え、肇に近づいて来た。

店内には高そうな靴がズラリと並んでいる。

「あのー、僕、2万円台位の靴を探しているんですが ありますか?」と勇気を出して聞いてみた。

「失礼ですが、水野肇様でいらっしゃいますか?」と店の人が聞いたので肇は驚いた

「あっ、はい……」

「先程、薬丸様からお電話をいただきました。」

「オーナーが……」

「はい、料金を気にせず似合う物を選んでやってくれと おっしゃっておられました。」

「えっ?でも僕、あまりお金を持っていなくて……」

「お支払いは薬丸様がなさるそうです。」

「はあ……」 (そうか、テーラーの店主がオーナーに連絡したのかな…)

「あのー、ノアの方舟をよくご存知なんですよね。」

「はい、お得意様でございます。」

「皆さんが買っておられる平均的な靴を見せていただけませんか?」

「あーなるほど… ではいくつか選んで参りましょう。サイズは28センチくらいでしょうか?」

「そうです。良く分かりますね。」

「まあ、仕事がら見れば大体分かります。用意して参りますので椅子に座ってお待ちください。」

店員に促され深紅の長椅子に座ってしばらく待っていると、靴の箱をいくつか抱えて戻って来た。箱の中から靴を取り出し、肇の前に6足が並べられた。

紐のある物 無い物、光沢のある物、マットな物、いろいろなタイプの違う靴が並んでいるが、どれもとても高価な物に見える。

「これがノアの皆さんが履いていらっしゃる平均的な靴ですか?」

「はい、大体皆様これくらいの靴を購入されておいでです。」

「あのー…いくらくらいでしょうか?」

「この紐のタイプで8万5千円でございます。」

「え――っ! もう少し安い物はないですか?」

「薬丸様は値段を気にするなと、おっしゃっておられましたが…」

「…………」肇が迷っていると店員が言った。

「水野様は大変遠慮される方ですね。皆様、買ってもらえるならと遠慮なく買われますよ。もちろん、初めだけですが。次回からはご自分で購入されます。薬丸様は皆様に一流の物を身に付けて欲しいと思っていらっしゃるのですよ。」

「そうなんですか……」

肇は並べられた直後から気に入った靴があった。適度な光沢があり、オックスフォードシューズと呼ばれる靴だ。

「じゃあ、これを履いてみても良いですか?」

店員は「どうぞ、」と言って靴ベラを手渡してくれた。くたびれた安物の靴を脱ぐのは恥ずかしかったが仕方がない。靴を脱いで履いて見ると 自分の足にピタッと

フィットして まるで誂えたように心地良い。

「やはり、安い物とは違いますね。」

「それはもう、皮も仕立ても違いますから、」

今まで自分の人生には全く縁のなかった物を身に付けて、今日からホストという仕事をするのだと、改めて緊張する肇であった。

この靴店からも丁寧な見送りを受けて店を出た。もう、緊張で疲れてしまい この後

初めての仕事をするのかと思うと不安でいっぱいだ。(出来るのか……)

時刻はもう少しで3時になろうとしている。4時からの食事には充分間に合う。

とにかく、寮に帰って食事をしよう。お腹が満たされれば また元気が出るだろうと

肇は思った。

「ただいまー、」寮に帰るなり真っ先に真紀とタマ子がいる食堂に行って、帰宅の

挨拶をした。真紀は肇を見るなり

「あー、はじめちゃん、ごめんね。私、靴店の事を話すのを忘れてた。でも、買って来たのね、良かったあー」

肇が靴店の紙袋を下げていたので、真紀は安堵していた。

「はい、テーラーのご主人から言われて行きました。靴店にはオーナーからの連絡も

入っていました。」

「そう、良かったあ~」真紀は肇の頭を見ると

「そのヘヤースタイル、いいわね、良く似合ってるよ。」と言った。

「そうですかあー……」肇はチョット照れた。

「真紀さん、僕、今夜から店に出て大丈夫でしょうか?」

「不安なの? みんな初めての時があるんだから頑張って、」

「はい…」

「食事が済んだら シャワーかお風呂を使ってね。汗を流してからお店に出るのよ。」

「はい、分かりました。あっ!今日は生姜焼きですか、僕、大好きなんです。」

「そう、覚えておくね。」

真紀は肇と話しながらも 皿にキャベツの千切りを盛り付け マカロニサラダも

隣に添えている。

「旨そうだなあ、」

その時、戸棚のように見える戸が開き愛美が出て来た。

「あっ、はじめちゃんだあ」

「愛美ちゃん、もう学校から帰ってたんだあ。お帰り、」

「愛美、宿題をやったの?」と真紀が聞いた。

「うん、やったよ。はじめちゃん手伝っているの?愛美も手伝う!」

「僕、まだ手伝っていないよ。愛美ちゃんえらいなあ、僕も手伝います。」

「ありがとう、じゃあ、今日だけお願いね。」

「急に人手が増えたねぇ、誰かポットにお茶を入れといてくれるかい?」

タマ子さんが声をかけた。

「あっ、はい、僕がやります。」

大きな薬缶に作ったお茶をテーブルに運んで 各ポットに入れるのは

結構力仕事だ。肇はいつも二人でやっているんだなあと感心していた。

四人で手分けをして支度をしていると 粗方準備が整い時刻は3時50分に

なろうとしていた。

エレベーターのドアが開き 幾分早めなのだが翔が現れた。


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