第8話 櫻子さんとの出会い

  「わかった、少し待ってもらって下さい。」

「ノアの新人?」 髪をセットしてもらっている客が反応した。

「興味ありますか?櫻子さん、ノアの方舟によくいらっしゃるんですよね。」

「そう、今夜も行こうと思っているの。だから、綺麗にしてもらおうと思ってここに来たのよ。」

「じゃあ、もうチョット華やかにしましょうか?」

「いいわね、お願い。」

肇はスタッフの女性から長椅子に座って待つように言われ座っていたのだが チーフと呼ばれた男性と女性客の会話の中にノアと言う言葉が聞こえてきて 何を話しているのかは分からないが 何となく気になってその二人の方を見た。すると女性客もこちらを見て目があってしまった。そして女性客は肇に向かって軽く手を振った。

「えっ?誰?」と思ったが 見覚えのある女性ではなかった。

「櫻子さん、気になりますか?」とチーフが聞くと

「今までのノアにはいなかったタイプだわ。何かそそられる…」櫻子は肇に興味深々

なようだ。

「あらら、櫻子さんのお気に入りは翔さんではなかったですか?」

「もちろん、翔もいいわよ。でもあの子も気になるわ。」

「今から私が腕を振るって もっとイケメンにしますよ。」

「楽しみ…」

「さあ、出来上がりました。いかがでしょうか?」

「うん、いいわ… ありがとう。チーフのセンスはさすがね。」

ロングの髪に緩やかなウエーブがかかり、この櫻子という女性、歳

の頃は40代のようだが とても艶っぽい。しかもチーフの扱いからして常連の大切な客のようだ。

「ねえ、次はあの子の番なんでしょ、私が呼んで来るわ。」

「いえ、そんなことは……」

チーフはお客様にそんな事をさせてはと、断ろうとしたが 櫻子はサッと席を立つと

肇の方へ向かった。

「ねえ、あなたの番よ、ノアの新人さん。」

「はい……どうも……」

いきなり女性客から言われ驚いたが、精一杯の作り笑いで返事をした。どうやらノアの客か?

「今晩、店に行くからよろしくね。」やはりだ……

「僕、肇と言います。よろしくお願いします。」

「あら、いい子。じゃあ、後でね。」そう言うとスタッフの女性にカードを渡して支払いを済ませた。 チラッと見えたカードはブラックだった。

「水野肇様ですね、オーナーから伺っております。私はチーフの神田です。どうぞこちらへ、」

チーフに案内され、先程の女性が座っていた席の隣に座った。

「オーナーから私のセンスでカットしてくれと言われたのですが よろしいでしょうか?」

「あ…はい、お願いします。」

オーナーの指示では断るわけにもいかない。どんな感じになるのか少々不安な肇だったが仕方がない。

「随分と伸びていますね。どれくらい切っていませんか?」

「4ヶ月くらいです。」

「せっかく伸ばしていらっしゃったのなら、長めで行きましょう。」

いや、伸ばしていた訳ではないと肇は思った。散髪代にまで金が回らなかっただけ、

でも、黙っていた。

「今、ノアのホストさん達は ほとんどが短い髪型だから、長い人もいた方がお客様は楽しいですよね。そうしましょう、」

「はい……お願いします。」

もうこうなったら どうとでもしてくれ、俎板の鯉の心境だ。

チーフの神田さんは見事なハサミ捌きで少々重くうっとうしい感じになっていた肇の

髪をドンドン切っていった。髪の長さはさほど変わっていないのに、随分軽くなっていく。

「この店も 実はオーナーの持ち物なんですよ。」神田さんが話し始めた。

「えっ?美容室もオーナーが?」

「まあ、経営は私に任せて 売上の10パーセントをオーナーが受け取る契約なんです。実は以前、私は別の美容室で働いていて、オーナーは私のお客様だったのですが

自分が資金を出すから独立しないかと持ち掛けられて今に至る訳です。お店のホストさん達も皆さんお客様で、本当にオーナーのおかげです。」

「僕もオーナーに助けられました。声をかけてもらわなければ きっとホームレスに

なっています。」

「ええ?水野様がホームレスですか?御冗談を……」

この言葉は御愛想だなと思った。なにせ肇のスーツは結構なヨレヨレ具合で 靴も

かなりくたびれているのだから、昨夜はシャワーを浴びたし、ワイシャツは着替えたので匂いはしないだろうと そんな事まで心配している。

「ああーやっぱり、この髪型、水野様は良くお似合いです。甘いお顔にワイルド感が

加わって一層素敵ですよ。」

「僕の顔って甘いですか?言われた事ないなあ、」

「水野様はこれから人生が変わりますよ。」

「はあ……」それは肇自身が充分に感じていることだ。

人生が変わる…… 良い方に……か?

鏡の中には ひと昔前のウルフカットに似た髪型の肇が居て、イケてるじゃんと、

自分でも思った。

その後、スキンケアの方法も教わり、基本は洗顔だと学んだあと、チーフの神田さんに見送られ、肇は美容室を後にした。

 それにしても、テーラーでも美容室でも 今まで肇が体験した事のない手厚い対応を受けた。それほどオーナーの影響力はすごいのかと驚いている。


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