第7話 プリティウーマンのように

  姿見のそばに仕立ての良いブラックスーツが ハンガーに掛けられている。

「イージーオーダーになりますので、これを試着してみてください。身長は180㎝

くらいですか?」

「あっ、179㎝です。」

店主はウンウンと言った感じに頷いて 肇の全身を眺めている。

「大丈夫でしょう… じゃあ、着てみて下さい。」

そう言って試着室を出ていった。肇は少々ヨレヨレになった安物のスーツを脱いで、

ブラックスーツに着替えた。

「なっ、なんかカッコイイ…」と小さくつぶやきが出るほど着心地の良い 体にほどよくゆとりもあるのにスマートに見えるスーツだ。

「高級品だあ…」再び小さく呟いた。

「お着替えになられましたか?」店主がドアの向こうから声をかけた。

「はい、どうぞ、」あまり丁寧に話し掛けられるので少々緊張気味に返事をした。

中に入ると店主はスーツ姿の肇を見て

「ああ、いいですねぇ、良くお似合いです。ただ、太ももの辺りにもう少しだけゆとりを持たせましょう。その方が椅子に座った時 きれいですから、」

「はい、お任せします。」

肇はいつも吊るしの安物を買っていたので、こんな経験は初めてで もう肩が凝るくらいカチコチになっていた。

「僕の体型、見てすぐに分かるんですね。」と言うと店主は

「お客様のサイズは大体見るとわかりますが、水野様の場合はオーナーの薬丸様に電話で 筋肉質で太ももが太いからスッキリ見えるようにとお願いされまして、」

「オーナーが……」

肇は昨夜の車の中でオーナーの手が太ももの上にずっと置かれていた事を思い出していた。 (なるほど…)

「水野様は良い方と知り合われましたね。薬丸様はなかなかの人物ですよ。行き場のない若者に住まいと職を与えて生きる希望を与えていらっしゃる。面倒見が良いんですよ。皆さんオーナーを慕っていらっしゃるようですよ。とは言えイケメン限定のようですが…」

「何か、センサーがあるそうです。」

「ハハハ・・良いですね。あっ、それとワイシャツを用意しますから、首回りを測らせて下さい。首も太いようですね、あと、裄も測ります。袖丈はあまり長くせず上着からほんの少し覗くくらいにします。ホストさんはお酒を注いだり、果物の用意をしたりと仕事をしますから、邪魔にならないで汚れ難い様に短めにしておくんです。」

「はあ、いろいろ考えて作られるんですね。」

「まあ、ノアさんとの付き合いは長いですから… シャツの次はネクタイを選んで下さい。皆さんお揃いのブラックスーツですから ネクタイで個性を出してもらっているんです。水野様もお好きなネクタイをお選び下さい。」

「僕、ブルーがいいかな、」と言った時、昨夜ノアの店で翔がブルーのネクタイをしていた事を思い出した。

「あっ、やっぱりやめます。じゃあ、パープルで、」

「いいですねぇ、お似合いだと思います。では完成させますので…出来上がりましたらお店の方に持って行きますから。」

「はい、お願いします。じゃあ僕、これで失礼します。」

「ありがとうございました。あのー、これは余談ですが 出来れば靴を新調された方が良いかと…」

「あっ…そうですね、そうします。」

「今から美容室に行かれるのでしょ? そこから二軒先に「リンカーン」と言う靴屋があります。ノアの皆様は大体そこで購入されておいでです。聞いていらしたのならすみません。少々気になったものですから…」

「いえ、聞いてなかったです。そこは高いんですか?」

肇は恐る恐る聞いた。肇自身いつも靴は量販店で買っていたので、専門店がどの位の価格なのか知らないのだ。

「安い物だと2万円台でしょうか、高い物は10万以上の物も沢山ありますよ。」

「あーそうですか…」

オーナーからの前借は5万円、1万はスマホの使用料金の支払いのため口座に入金しなければならない。残りは4万だから何とかなるか、1万くらいは手元に残しておきたい。就職活動のための電車賃などがいるのだ。

肇は自分の靴を見た。かなりくたびれている。所どころ傷もある。

(これじゃあ、店に出られないよな。何よりここのスーツに似合わない)

「水野様、どうかされましたか?」考え事をしている肇に店主が声をかけた。

「あっ、いえ、いろいろありがとうございました。では…」と言ってカラカラとベルの音がする扉を開けて店を出た。

さあ、次は美容室だ。 テーラーから5百メートル位の所に 白い壁にオレンジ色の屋根、やはりフランスを思わせるような建物があった。木調の扉の横にスチールの黒い金具に吊るされた木製の看板が下げられている。Parisと横文字で書かれていて

パリっぽい風景のイラストも描かれている。何もかもお洒落だなと肇は思った。

ドアを開けて中に入ると以外にシンプルで 2鉢の大きな植物が目を引く。木製の長椅子も素朴で 何だかとても落ち着く。

「いらっしゃいませ。」黒いシャツに黒いパンツの女性が近寄って迎えてくれた。

「あのー、僕、ノアのオーナーから言われて来ました水野と申します。」

「はい、伺っております。少々お待ちください。」

女性は店の中央辺りで客の髪にドライヤーをかけている男性の所へ行き、小声で伝えた。

「チーフ、ノアの新人さんが来店されました。」


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