第二話

「飛龍」の艦橋は混乱の支配する所となっていた。慌ただしく飛び回る直掩機の動きでようやく襲来を悟った彼らは各艦に回避運動を命じ、同時に対空戦闘の開始も発砲という形で伝える。急降下に入りつつある敵機に対してそれが意味をなすかは、怪しいところがあったが。

「敵機、急降下!」

 まだ若い見張り員が上げる悲鳴のような報告を聞いて、加来かく止男とめお「飛龍」艦長は、その日本人らしい顔立ちを変えぬまま回避運動の続行を命じた。

「取り舵。航海、後は任せる」

「とーりかーじ」

 舵が効くまでおよそ40秒。どうだろうか。加来はその頭の中で計算を始めた。敵の高度は六○。投下は○五で行うと仮定して、5500メートル分を降下しなければならない。降下角度を六十度と仮定して、その移動距離は約6400メートル。降下速度は毎秒125メートルほどと見ればーよし、間に合う。

 小さく息をつき、士官らしい態度に戻って正面を見据える。徐々に高く、大きくなってくる敵艦爆のダイブブレーキの音の下、彼と山口司令長官だけが冷静であった。


 何とか第三分隊ー機銃の射撃を指揮する分隊ーが動き出し、小太鼓を滅茶苦茶に打ち鳴らすような音が無遠慮に存在を主張する。完全に不意を突かれたために長十サンチ砲の射撃が間に合っていないのだ。

「一、二分隊、射撃急げ!」

 伝声管に向かって怒鳴るも、それで射撃が早まることはない。彼が未だ対空戦闘については素人であることの証明のようなものだった。甲高いダイブブレーキ音が徐々に大きく、遠くなってゆく。両手の数ほどの敵機が五航戦を、彼らが楯となるべき部隊を狙っているのだ。

 苛立たせるかのようにゆっくりと旋回する砲塔が仰角をかけ、安本が射撃開始を命じようと息を吸う。その瞬間、

「敵機、投弾!」

 見張り員が叫び、ドーントレスが重たげに機種を上げる。間に合わなかったのだ。一度放たれたなら何者だろうと近寄らせない長十サンチ砲は、何らなすところがなかった。防空艦としてあってはならない事態である。クソッ。これでもし、万が一被弾でもしたらー

 絶望の淵に追いやられた彼らに止めを刺そうとするかのように、

「『翔鶴』轟沈!」

 先ほどの見張り員の叫び声が飛び込んだ。人いきれが嘘のように消える中で佐々木が目をやると、「翔鶴」のいるはずの場所が奔騰する水柱に囲まれていた。轟沈で発するはずの煙や炎は見えない。恐らくは経験不足の彼の誤認だ。だが、万一のことがあったとしたら?

 立ち上った水柱がゆっくりと重力に従う。基準排水量二七〇〇〇トンの勇姿が悠然と姿を現し、佐々木の意見の正しさを教えた。

「馬鹿者、勝手に沈めるな!」

 岡田見張長の柔らかいビンタが彼を叩いたのだろう、湿気た風船を割るような音が伝声管を伝わった。艦橋の空気がほんの少し弛緩する。彼らの視界の中では他の艦が同じように水柱に隠れ、また姿を現す。トラックを出撃した時と全く変わらない姿で。

 上空から聞こえて来る負け惜しみのようなプロペラ音が、急速に遠ざかってゆく。終わったのだ。奇襲を受けたものの、いかなる損害をも受けること無く、完全な勝利を得た。事実としてはそうであったが、真実がそうでないことは、艦内の空気が伝えていた。敵機を撃墜出来ずして、何が「防空艦」だ?

 佐々木は忌々しい現実から逃避するように、

「見張り、気を抜くなよ。次は見逃すな」 

 と、気の利いているとは言い難い命令を下した。それでも見張り員に敬意を抱かせる命令であることもまた確かであった。


血のりの付いた操縦桿を握りしめ、息を切らしてTBDデバステーターを操る男がいた。ジョン・ウォルドロン少佐。「ヨークタウン」雷撃隊VT-8を率い、第一次攻撃隊の雷撃隊をも率いる男である。その顔には疲労と悔しさと、怒りが浮かんでいた。

 彼の部隊はコーディエ中佐たちと共にジャップの攻撃隊を尾行していたのだが、卑劣な奴らに反撃を食らいー執拗に付きまとわれたデバステーター隊は半壊していた。今、彼の手元にあるのは僅か9機。まともに戦っても勝ち目はない。ならば、冴えたやり方ニート・ウェイは一つ。奇襲だ。もし可能ならば、先行したドーントレス隊と共同での。

 血の滲む左腕の包帯を見る。先ほどジャップの機銃弾の破片が掠って出来たものだ。血の止まりが悪いらしく、まだ出ていた。徐々に減ってゆく彼の命が、白い包帯に輪を作る。畜生。まるで膿み爛れたジャップの国旗みたいじゃないか。俺は奴らが反吐が出る程嫌いだと言うのに。

 その時、後席の通信員が歓喜の声を上げた。

「見つけました!右40度、7マイル!」

 その方角に目をやると、確かに航跡が見えた。しかも乱れたーつまり回避運動を行ったものが。さらに目を凝らすと、小型の駆逐艦や巡洋艦、さらにペンケースのような艦影があった。数は6。間違いない。ジャップの機動部隊だ!

 ウォルドロンは無線機のスイッチを入れ、叫んだ。彼が味わった様々な悔しさ、怒り、恨みを全て詰めた、伝説の悪竜でもたちどころに逃げ出すような叫び声だった。

「雷撃隊、俺に続け!ジャップどもをまとめて全滅させてデバステイトしてやろうじゃねぇか!」

「イエス・サー!」

 彼以外の26人が唱和し、プラット・アンド・ホイットニー R-1830が900馬力の高らかな嘶きを上げる。単横陣を組みー僅か9機で両側からの同時雷撃を仕掛けても回避されるだけだと判断したのだー、200マイルを超える速度で突撃を開始する。その姿はサタンに鋭剣を持って立ち向かう勇者のように雄々しくさえあった。

 誰も彼もが、恐らくウォルドロンでさえも理解していた。恐らく自分たちは生きて栄光の下に立つことは出来ないと。だが彼らは進んだ。心のどこかにあった希望で狂熱を燃やしながら。

 高度1200フィートを突き進む彼らの胸に抱かれた、微かな希望。篝火のようであったそれは、唐突に断ち切られた。軍用機乗りなら誰もが嫌う黒煙。不意に空中に湧き出たかと思えば、あっという間に空を埋めんばかりに広がる。見つかったのだ。

 ウォルドロンは部下の灯火が消えかけたことに気配で気付くと、叱咤した。あるいは彼だけは既に狂っていたのかもしれない。

「諦めるな!海面にへばりついて飛ぶんだ!」

「……」

「復唱どうした!」

 近くで爆音がし、その直後に薄ら寒い沈黙。R-1830は快調に回っているというのに、人気がほぼ無くなっていた。はっとして首を左右に回す。まさか。

 黒煙があった。ただ黒煙だけが。馬鹿な。まだ2マイル近くあるというのに。

 後ろを向く。先ほどまで熱狂のただ中にいたはずの相棒たちは、永遠の冷たさへと向かおうとしていた。

 ウォルドロンは叫び声を上げた。突然に何十歳も年を取ったようにしわがれた、雪山に残されたかのような絶望に満ちた声だった。

「神は……神は俺達を見放した……」

 彼が本当に天に見放されたのは、その数秒後であった。なお、この雷撃隊による被害は皆無だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る