第2話(1) 新任の執事
「フィリアお嬢様、新任執事のシド殿が参られました」
部屋の外から執事代理を勤めているノイグの声が聞こえ、室内の空気が異常なまでに張り詰めた。
息をのんだフィリアはできるだけ緊張の面持ちを隠し、淑女然としてドアを見遣った。運命の人に会うのに、第一印象はやっぱり大事だと思うから気を遣うのだ。
ミーナが頑丈な二枚扉のドアを押し開ける。廊下から薄明かりが入り込み、まずはノイグが、続いてついに、待ちに待った『仮初めの使用人(推定)』が入室した。
黒い執事服を着た若い男が一歩足を踏み入れ、左手を腹へ当てて形式通りの儀礼を行う。
「お初にお目にかかります。私はシド・アイボットと申します。以前こちらで執事をしておりました、バゼル・アイボットの後任でございます」
しんとした空気によくなじむ、宵闇のような落ち着いた声だった。
「アイボット――?」
聞き馴染んだ姓に首を捻りながらも、フィリアは薄闇の中の彼を注視した。
背はそれなりに高い――高いのは間違いないが、程よく足が長く見えるのは、そのようにデザインされた執事服をすでに着こなしているからだろう。
程ほどに細く凛々しい眉と切れ長の目、眉間から真っ直ぐに通った鼻筋と固く結ばれた薄い唇が、確固とした意思の存在を物語っている。年齢は二十代後半くらい。落ち着いた所作で背筋を真っ直ぐに伸ばし、どこか翳のある眼差しでフィリアを見つめている。僅かに片目をすがめているのは、窓辺の主人が逆光の中で白銀に輝いているからだ。
瞳は冷ややかにも燃えているようにも見える青。
前髪を少し長めに流した頭髪は――薄闇に溶けているあれは……黒――? いや、アッシュグレーだ。様々な人種の入り乱れるこの国でも割とポピュラーな、光の加減によっては黒にも見える、濃いグレー。
先日巡り合えた黒髪の騎士に似ている気もする。
これまで舞踏会で様々な男性に出会ってきたが、今日ほど胸が高ぶったことはなかった。
きっとこの人だ。この人なのに。
フィリアは感激と困惑の入り混じる感情を押し隠して冷静に訊ねた。
「あなた、アイボットというの……?」
「はい……私はアイボット家出身――前任執事であったバゼルの孫でございます。どうぞお見知りおきくださいませ」
「アイボット……」
初めての会話。
思ったより柔らかく落ち着いた声色は心地よかったが、その姓の意味を知っているフィリアは急激に落胆して行った。
アイボット家とは――代々このオリーズ侯爵家に忠誠を誓って来た由緒ある使用人の一族である。貴族の身分はなく、その家出身の者は皆使用人として生涯を侯爵家に捧げて来た。つまり、このシドは紛れもなく完全に『仮初めではない使用人』ということだ。
この城で働いてこなかった彼が急遽執事に抜擢されたという不思議な人事も、それが理由であれば説明が付く。
「……あなたが、シド……バゼルの後継者……」
「……さようでございます。本日から城内のお世話をさせて頂きます。御用の際にはなんなりとお申し付けくださいませ、フィリアお嬢様」
そう言って一礼した執事は、慣れた動作もしなやかで美しく、口惜しいほどバゼルによく似ていた。
ただ、少し違う部分があるとすれば、目だ。歳のせいか柔和だったバゼルと違い、シドの瞳は鷹のように強く、それでいてどこか暗い印象だ。眩しさを堪えてしっかりとフィリアを見据えてくる鋭い眼光は怯んでしまいそうになるほど真っ直ぐだった。
運命のようで運命でない、従順のようでいてどこか陰のある鷹のような人――。
あの目はともすればフィリアに対する怒りを示しているようにさえ見える。考えてみれば、それは彼女にとって心当たりのあることだった。
フィリアは痛切に眉尻を下げた。
「私が街に出たいと望んだばかりに、バゼルには本当に申し訳ないことをしました。あんなことになるなんて思わなかったの。本来なら執事を外へ連れて行くことなどなかったのに……ごめんなさい」
心からの謝罪だった。あの日、執事ではなく護衛を連れて行けばバゼルを死なせずに済んだのだ。フィリアが何より悔やんでいるのは、占いに彼の凶兆が表れていたにも関わらず連れ出してしまったことだ。無理に出かけたことを候爵である父親からひどく叱られ、何日も泣き暮らし、もう慰めてくれるバゼルは居ないことを改めて思い知った。当然このシドにとっても大切な祖父だったに違いない。
正直に非を認め、使用人に対して謙虚に謝罪する令嬢は稀有である。シドは僅かに驚きの表情を見せた。
「……とんでもないことでございます。祖父はオリーズ家の執事であることを大変誇りにしている人でした。お嬢様の生命をお守りできたことは本望であったと思います。私も祖父の遺志を継ぎ、今後精一杯努めていく所存でございます」
冷然とした見た目とは裏腹に、こちらも謙虚な応答だった。頭を垂れ、するりと落ちた前髪で目元が隠れたその姿勢はフィリアにとっても、傍らのミーナにとっても心沸き立つものだった。やはり言葉遣いや所作などがどこかバゼルに似ているのだ。
だからこそ、フィリアは複雑な気持ちを抱えたまま確認しなければならなかった。
「あなた……、どこかで見たような気がするのだけど、私とどこかで会ったことがないかしら……」
「……、私は以前、ナルス高原の屋敷で屋敷守をしておりましたので、そちらでお見かけになったのかもしれません。今回オリーズ候のお計らいで執事という名誉ある大役を頂き、こちらに参りました次第です」
「まあ……そうなの」
尋ねるまでもなく、街で自分を救ってくれたあの騎士は、他にいるということなのだろう。
フィリアは少しうつむいた。
「幼少のころ以来ナルス高原には行ってないわ。あなたは本当に、執事……なの?」
「……勿論。アイボット家出身、正真正銘オリーズ侯爵家専任の執事でございます」
「…………」
眉尻を下げた令嬢は一つ重い溜息を吐くと、サイドテーブルの上にあった香炉に火をつけた。すぐに甘く優しい香りが部屋中に漂い始める。これは東洋から取り寄せた占い用の香木だ。これを使うことで、この人物が信用に値する人間かどうかが窺い知れる――らしい。
これをひと振りしてみると、不思議めいた薄紫色の煙がシドの方まで漂って行くった。彼女はその動きを『観察』するように佇んでから、しばらくしてしょんぼりと肩を落とした。
伝承通りに目鼻と空気の揺らぎと直感を駆使して行った簡易な香木占いでは、シドがバゼルと同じくらい『信頼に値する』と出たのだ。
この占いが正しいとすれば、彼は嘘をついていないことになる。
それならそれで諦めも付く――と、フィリアは思った。
髪の色だけは理想に近いが真っ黒というわけではないし、あの鷹のような目は少し怖い気がする。彼女はもっと、優しく笑いかけて甘やかしてくれる白馬の王子様みたいな男性が好みだから。
「ミーナ、窓を開けてちょうだい。例の物をシドに手伝ってもらうことにするわ」
言われた通り、先ほど閉めた南側の窓をミーナが一枚ずつ開き始め、すぐに部屋全体へ明るい光が差し込み、美しい白壁と薄緑色の絨毯が輝きを取り戻した。
フィリアは立ち上がってシドの元へ歩み寄り、持っていた羊皮紙を差し出してその顔を見上げた。
完全に光を得た室内で近付いてみると、彼の表情は思っていたよりずっと繊細な機微を湛えていることが分かった。
固く結ばれていると思っていた唇はほんの僅かに緩んでいて、眩しさから解放された切れ長の瞳の奥には穏やかな熱があり情があり、静かな炎が――気のせいかもしれないが、フィリアを真っ直ぐに見下ろす視線の中に、隠れた炎が揺れているような気さえした。
さっきその目が怖く思えたのは、多分彼の気負いが伝わってきたからだ。
瞳は青ではなく深みのある青藍色であり、さらにその髪が――薄闇に溶けていたあの髪がアッシュグレーではなく、見とれてしまうほど美しく艶めいた漆黒の色だったことがフィリアに衝撃を与えた。
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