第2話(2) 新任の執事
震える手で、小さく折り畳まれた羊皮紙を開く。
「そ、それではシド、さっそくあなたにお願いしたいことがあるのだけど、いいかしら」
「なんでございましょう」
「急ぎ、人探しを――安否を知りたい方がいるの」
フィリアの差し出した書類サイズの羊皮紙には、びっしりと弓弦が踊ったような謎の文字が書かれていた。
市街地で暴漢に襲われたあの日、颯爽と現れ、賊を撃退して名前も名乗らずに去って行ってしまったあの黒髪の騎士――その彼が落として行った唯一の手がかり。
「できるだけ早く、この紙の持ち主と思われる騎士を探したいの。書簡の類だと思うのだけれど、この羊皮紙に書かれた文字がどこの国の言葉で何が書かれているのか、さっぱり分からないのよ。これが分かればその騎士の所在を突き止められるかもしれないわ」
「……、これをどこで手に入れられたのですか」
「街よ。名前も分からない騎士が落として行ったの。私を暴漢から助けてくれた人――きっとどこかの国から来た名のある騎士に違いないわ。あなたは外国語には詳しいかしら」
「いいえそれほど……諸外国の地理に関してなら少しだけ心得がありますが……」
「では、やっぱりお父様の書庫へ行って調べるしかないわね。ミーナは書庫が怖いと言うから、あなたに付いてきて欲しいのよ。忙しいでしょうけれど、時間を少し空けることはできないかしら」
「時間……ですか」
シドが隣にいる執事補佐のノイグを見遣ると、彼は一つ頷いた。
「本日は日暮れからしばらくの間であれば余裕がございます。若干の仕事がございますが、これは私が対応すれば済むでしょう」
「よかった。では、その時間に私と一緒に来てちょうだい」
「承知致しました」
再び形式的な儀礼として漆黒の執事は左手を腹に当て一礼した。目の前のフィリアをしっかりと見据え、驚くほど自然に、執事らしく優しい微笑を添えて。
シドが退出して行った後、徹頭徹尾淑女然として抑えられていたフィリアのショックは徐々に外へ表れていった。
「やっと出会えたと思ったのに……」
運命のようで運命でなかった。
黒髪だし、笑ったらちょっと好みの顔をしていた……。
こんな悲しいことってあるだろうか。あれで、もし性格まで完璧で優しく甘やかしてくれた日には悲しみが何倍にも増すだろう。何せ彼は執事だ。ただの使用人だ。好きになってはいけない人だ。
今後運命の人が現れなくて、自分が次女、三女という立場だったなら心のまま突撃してしまったかもしれない。そのくらい運命を感じたというのに、フィリアは悲しいかな侯爵家の一人娘なのだ。結婚相手には必ずこの城を継げるだけの身分が要求されるから当然両親が許してはくれないだろう。無理を言って運命の三人のうち誰か一人でも見つかったら結婚しても良いと一応の了解は取り付けてあるものの、シドはアイボット家の出身だから『仮初めの使用人』ですらないのだ。
また、婚期が延びてしまった……そう思うと、重苦しい気分が波のように押し寄せた。
籐椅子に座って溜息を吐き出し、再び憂いを帯びた面持ちで窓の外を眺める。今度こそと思っていたものだから時折唇を噛み締め、悔しさに滲んで来る涙を堪え、手でそれを払ってはまた物想いに沈んでいく。
その姿は、傍らで見ているミーナも心配になるほどだった。普段なら、やっぱり違ったと言って次の目ぼしい相手を探し始める所なのだが、これほどショックを受けているのを見たのは初めてである。
そして、フィリアは驚くほど回復も早かった。しばらくして心の整理がついたのか顔をあげ、突然頬をパンパンと二回叩いて自らを鼓舞し始めたのだ。
「オリーズ家の一人娘がこんなことじゃいけないわね。元気出さなくちゃ。シドの正体が騎士って可能性はまだゼロじゃないわ。もしかしたらアイボット家というのは表向きは使用人の一族だけれど、本当はうちで養成している影の騎士集団なのかもしれないし」
令嬢は諦めが悪かった。
そんな騎士集団の存在は一つの噂も聞いたことがない。
ミーナはその物想いが一過性のものであることを願いながら何も言わずに怪訝な顔をして眺めていたが、まあ、毎日あの執事と顔を合わせ続けるとなると一過性では済まないだろう。
あれは多分、薄っすら始まった恋わずらいだ。
思い返せばこの時から、絶望的に執事っぽいシドの正体を解き明かさんとするフィリア候女の涙ぐましい現実逃避は始まったのである。
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