第21話 逃避
昼の休み時間、教室にいたくなくてしっくりくる場所を探していた。売店でパンと牛乳を買ってふらふらと歩きながら、行くあてのないことに気づいて落ち込んでいると、途中で山崎に出会った。
「なんだよ、元気ないな。そういう時には声掛けろよ。友達甲斐がない」
そういう山崎の顔が眩しくて目を見ていられなかった。
「美術室行くか?昼休みは誰もいないから」
そう言って前をスタスタと歩いていく山崎の後ろで、黙ったままついていく僕に、あいつは何も聞かなかった。
「お前、恋してる可能性があるんだって」
重い口を開くと、もういつもの山崎だった。
「可能性って、可笑しいだろ」
「でも、吾川が言うには、自分でも恋かどうかわからないんじゃないかって、だからはっきり恋してる。とは断定できないってさ」
「そういう話だったら逆に楽しいかもな。高校生の間に恋の一つもしてみるかって」
「いいんじゃない、何事も経験だよ。必要じゃない。芸術家には…」
芸術家か…パンを一口かじる。
「あ、そうだ今度、ピアノコンクールに出るよ」
ついでに山崎に報告した。
「お、ついに!そうきたか!前に冗談で言ったよな~
また、聞かせてよ。どんどん上手くなる。ピアノ弾けるなんてすごいよ。その辺に居そうな坊やなのに存在感半端ないもんな~お前」
冗談だったって?その辺に居そうな坊やって…その話には返事する気にもなれない。残りの牛乳をズズーとすすって外を見ていた。
「俺は、高校卒業したら親のところへ帰るかな」
「なんで?そんなの、まだずっと先じゃん。吾川どうすんの?上手くいってるのに」
長い沈黙の果てに、
「…それぞれちゃんと目標持ってないと、僕が吾川の邪魔するなんてやり切れないし、まだやりたいこと見つかんないんだよね。お前は良いよ。…才能に恵まれてる」
「才能ではないな~。この仕事自分で選んだわけじゃないからね。親父がやれって、それをやっているうちに今が在るっていうか…」
「それ、ほんとラッキーだよ。きっかけを掴むって難しいんだよ」
「家でバイトする。片っ端からいろいろやってみろよ。いろんな仕事あるから協力するよ。総合プロデュース業だから、レストラン一つとっても料理作ったり、運んだり、ワインの知識も必要だろ、照明の勉強とか、設計とか、とにかく幅広いから、やってみたい事があれば何でも相談に乗るよ。
まあ、ロケットは飛ばせないから…吾川にはNASAに行ってもらうしかないけど。いろいろ試すのも悪くない」
山崎が優しくフッと笑った。
「考えがまとまったらまた、相談する。その時はよろしく」
あんまり弾まない。山崎らしくない言い方だった。
午後の授業のために教室へ戻ると冴ちゃんがあわただしく駆け寄ってきた。
「聡里さん倒れた。今保険室、どうする?家まで送ってあげたら」
「どうするって…え、なんで?僕自転車。バイトもあるし」
「自転車は置いていけばいいよ。仕事は、今から送っていけばじゅうぶん間に合う時間だと思うけど」
と冷たい顔をした。
「え、午後の授業…」
「たまにはサボっても大丈夫でしょう。阿弥陀田くんですよ。最強の!バイトも家も、彼女のところもほぼ同じ場所でしょ」
確かに…本格的な教会で式をと望まれる時は天使の教会を使った。向こうの仕事は先輩の専門で僕が行くことは無かったけれど、それでも躊躇う僕に、
「あなたがあそこの子だってのは、とっくにばれてます」
と、冴ちゃんが追い打ちをかけた。
「聡里…大丈夫?」
腹をくくって保健室に行ってみる。僕に果たせる役なのかわからないが、家の方向から言って適任だろうと担任も納得した。
「あ、阿弥陀田くん…」
名前、知ってるか…そりゃあ知ってるよな。あの天使の園に高校生が出入りするのは目立つ。ほぼガキばっかりの子供の園だから、
「僕が送ることになった。どう、気分は?」
このセリフは冴ちゃんに教わった。とにかく最初に何を言えば良いのか、その後は何とかなるような気がした。
「え、送るって…」
「ああ、動けるならね。熱もないし帰っても大丈夫だって。帰る方向一緒だから、あの、僕が一番良いって」
聡里は僕に迷惑かけまいと急いで立ち上がって身支度した。
過呼吸症候群??
「すみません…自転車押させて」
聡里優実は消え入るような声で申し訳なさそうにする。
「いいの、いいの、無理したんじゃない?どこが悪いのかは知らないけど」
「過呼吸症候群なんです。心因性の…って言われてて」
過呼吸症候…過呼吸…病名は難しくてわからない。どんな病気なのかも想像できない。この話題はなるべく触れないようにしよう。
「あ~本間さん知ってるよね?」
そうだよ、今気がついたよ。本間さんならお互い知ってるじゃん。
「あの先輩、私服凄いの。一度しか見たこと無いんだけどね。インパクトが強くて忘れらんない。私服というか、ちょっと違うか~室内着だよなあれ、寝巻?初めて会った時、なんかダラダラの恰好でどう反応したらいいかわかんなかった~」
聡里が本間と聞いて少し笑った。
「でも、ああ見えて演奏すごいんだ。あ、知ってるか~こういう先輩なら見習って上手くなろうって思った。いい感じだろ。バイトにしちゃあ出来すぎ」
「あははは」
別に爆笑を誘うように話そうとしたわけじゃないけど、聡里は何度も楽しそうに笑ってくれた。
そうだ、僕には本間先輩がいる。聡里の事なら詳しく聞けるかもしれない。後で探ってみようと気がついた。
「一学期の勉強はどうするの?わかんないとこあるよね。僕のノート見る?たいしたノートじゃないけど、まあ、一応まとめたから夏休みにね」
「すごいですね。バイトで忙しかったって…」
最後がいちいち消え入りそうになる話し方にとまどう。冴ちゃんとも違うし、マヤとも違う、二人ともバイタリティーがあるから声が消え入ったりしない。本物の女の子なんだなと改めて思った。
『本物ってなんだよ!』ってあいつら怒るな。『私たちの事なんだと思ってるのよ!』って…
女の子と二人で歩くのは初めてだった。初めてのデートの時は山崎もいたし、冴ちゃんもいたし、四人でワイワイしてたから、二人で歩くこの景色は、話した方がいいのか、話さない方がいいのか、話す事もないのに焦った。
「僕、子供たちの前でピアノを弾いたことあるんだけど…その時教会にいた?」
「…とても素敵な演奏だった。あれ聞いて…凄く元気出て…本間さんから同じクラスだって聞いて、学校へもう一度行きたくて特訓したの…」
打てば響くような返事では無かったけれどその答えはとても嬉しかった。
「へ~夏休みに?どんな特訓?」
「小さい子たちに絵本の読み聞かせしたり、図書館の整理をしたり、昼食の準備手伝ったり、一日、長い間体を動かしていられるように、みんなに工夫してもらったの。毎日少しずつ…
本間さんが、動ける自信がついたら、大丈夫なんじゃないかって言ってくれたから…」
「良かった。頑張った甲斐があったんだね。まあ、無理してるからこうなったってのもあるけど、ゆっくり慣れたらいいよ」
学校のそばの駅まで歩いて、そこから電車に乗った。
学生のいない昼間の車内はガラガラで、窓の外の景色が窓いっぱいに流れていて、時間がゆっくりと動いていた。
天使の園に着くと子供たちが広場で遊んでいた。フェンスで仕切られた幼稚園の園庭では、大きい子供たちが体操服を着て飛び箱やマット運動をしている。小さな子どもたちは思い思いに砂場で遊んだり、ベンチで絵本を広げたりしていた。明るい声が響いている。
日射しの温かい静かな午後だった。
「あ、ピアノのお兄ちゃんだ」
子供はめざとい。僕の顔を覚えている。
「今日もピアノ聞かせてくれるの?」
あんなに緊張して正装していた僕と、今の僕が同じだと、なんでわかるんだろう。あの時のことを思い出すと冷や汗の出る経験だったのに…
子供たちに手をひかれてピアノの前に座った。素直な子供の目線が真っ直ぐ胸に届く。また、あのボントールとの懐かしさに戻っていく…いっそあの景色に帰ってピアノを弾こう。僕はもう感情に流されて泣いたり笑ったり、自分で自分がコントロールできない。信じられない領域に迷い込んでしまっていた。
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