第19話 新学期
いつもより少し早く家を出て、坂道を駆け上がる。夏の暑さがまだ強く残っている。朝の涼しいうちにこの坂を登り切ってしまおうと、目が覚めて一番に思いたったのだった。
一人また一人、前かがみになって登る生徒を追い抜きながら、てっぺんまで上がると、校舎の陰になる自転車置き場に逃げ込んで汗をぬぐった。
「おはよう!」
「ああ、おはよう!早いね。山崎帰ってきた?」
「そっちこそ、夏休みはおじいちゃん家に行ってたんですってね。会えないってだだこねてた」
「そうなんだよ。空港まで迎えに来いとか面倒な事ばかり言って、恋人いるんだからそっちでやってくれって、苦労しましたよ。まったく」
「友達甲斐がないなんて言われてもね」
「そうそうこっちも忙しいんでね」
「おはよう」
朝ヶ谷が疲れきって椅子に倒れ込む。
「なにもう朝練?」
「夏休みもずっとです」
「良かった~入って無くて、僕そういうの駄目。やっぱ仕事の方が楽だわ」
「俺、腕上げたぜ、この夏休みで。来年のデモンストレーションは俺だな。見てろよ」
そう言って自慢げに弓を引くまねをした。腕の力こぶが盛り上がる。
それぞれ、それらしい夏を送っていたらしい。朝ヶ谷のヒネヒネした白い顔が浅黒くなったのと、筋肉がついて胸のあたりが逞しくなったのがその証拠だった。
「模試は行ったの?」
「行ったさ。予想以上に良い点が取れた。体力も実力のうちだって再認識だよ」
「確かに体力付いただろうな。背中ががっしりしてきた。良い拾いものをしたと思うよ。あの和弓部の、何ていったっけ?…先輩」
「立花…」
「それそれ、まったくしぶとくて悩まされたけど、おかげでこんなすごい原石見つけてさ、僕は必要じゃなくなったわけだ」
そんな話で盛り上がっていると、チャイムが鳴って先生が教室に入ってきた。入口の扉が開きっぱなしで先生が教壇で咳払いするまで、入って来た事にすら気がつかなかった。
顔を上げると後ろに不思議なオーラを放つ少女を連れていた。
「新入生というより、しばらく体の調子が悪くて休学していた聡里優実さんだ。今学期からまた、復学することになった。どう、もう本調子?」
「なんとか…よろしくお願いします。聡里優実です…」
聡里優実…何か…心が騒ぐ。心が釘付けになる…みたいな。
でも、冴ちゃんの時とは違う。彼女はきっと天使ではない。すると…いったいなんだろう。頭をフル回転させてこの感覚に合うデータを探してみる。この違和感がなんと反応しているのか。反応しているとすれば今までの経験の中に似通ったものがあるに違いなかった。
「どうしたの?」
「ん?」
「表情が険しい…怖い顔してる」
「いや、何でも、何でもないよ」
「そう?女の子をそんな怖い顔で見ちゃだめよ」
「え?女の子」
「あら、彼女を見てたんじゃないの。私はてっきりそうかって」
やばい、やばい、女の子をジッと見るなんて僕のポリシーに反する。ましてやそんな気持ちを読まれるなんて、どこか気が緩んでいる。気持ちの整理はつかないが危なっかしい過去との交信は即刻やめる事にする。
しかし、彼女の雰囲気は独特で体の周りにまとう静か過ぎるオーラが、視覚の隅に飛び込むたび襲う微妙な躁鬱感に一日悩まされた。
「どうしたの、何かあったの?」
「なんだよ、夏休みが終わってもまだ来るのか」
相変わらず冴ちゃんが僕のクラスにやって来た。
「なによ、来て欲しくないの」
「お前がそうやって休み時間の度にまとわりついてちゃ恋もできないだろう。僕に彼女がいるって噂がたったらどうしてくれるんだよ」
「ぷ!」
横で吾川が噴き出す。
「恋をしてみたくなったわけですか、当てでもあるの?」
「うるさい」
「ピアノが余裕で弾けるようになったからって、心にゆとりが出来たわけですね。今までなり振り構わず学校、仕事、学校、仕事って没頭してたのに」
冴ちゃんに説明するのは何より面倒臭い。
「少し寝させて、昨日も帰りが遅かったし、疲れてるんだ」
机の上に突っ伏して目線を左に向けると、視界の隅で聡里優実が午前中の授業のノートを確認していた。僕は突っ伏したついでに目を閉じて、思い出すとはなしにフッと浮かんだ天使の国の「静かな湖」を思い浮かべていた。
子供の頃家族で遊びに行った「静かな湖」は、透明度が高く、光が湖の底まで達し、倒木や魚の群れが光に美しく反射して水の中にオーロラが現れたような、さまざまに変化する光の色が素晴らしい湖だった。
ウラウがパチャパチャと水をはじく、父さんがウラウを叱りながら水をよけて両手で遮る。また、大きな両手だ。前にも何かの思い出の中でこの両手が目の前に差し出された気がする。あれは、父さんの手だったんだ。だんだん近づいて真っ白になって消えた。
「阿弥陀田、阿弥陀田、珍しいなお前が本も出さずに眠ってるなんて」
深い眠りから覚めると午後の授業が始まっていた。
「ああ、すっかり眠ってしまって」
「寝かせておいてやりたいところだけれど、気持ち良さそうに寝息まで立ててたからな。でも、授業だから」
「すいません」
僕があわててノートや本を広げると、周りからクスクス笑う声が聞こえた。
彼女を見ると眠くなる。思考が止まって意識が彷徨い始める…
「まったく、天使のような顔でああスヤスヤ眠られると先生でも起こすのにためらわれてしばらく眺めていたよ。おまえは本当に得な存在だと思うよ」
授業が終わると朝ヶ谷がさっそく前で囃したてていた。天使って…
「日頃真面目だからだよ。途中で眠ったわけじゃない」
「阿弥陀田~ちょっと良い?」
「何!」
矢継ぎ早にやって来る訪問者に半分切れていた。
「機嫌悪いの?相変わらずだな~ようやく会えたのに。また、なにかあったの?」
答える気にもならない。僕はいつも不機嫌でむっつりしているのが定番になっている。初めの頃はわざとそうしていた。周りと関わるのが苦手だったし、自分の時間を有効に使うためにはその方が都合よかった。
今となってはもはや消せない汚点だけれど、だんだん本性がそうなっていく。こうやってみんなからそう見られて、見た目も中身も真っ黒になっていく。
チラッと聡里優実を見る。気にしてるのか?…そんな自分の評判をどう受け止めているか。いや、そんなはずはない。僕は良い奴だと思われたいなんて是っぽっちも思っていない。考えていることが複雑すぎて情けなくなった。
「今日、バイトあるの?」
「ん?」
そうか、こいつが来てたんだ。
「もちろん、あるよ」
「そう、じゃあ」
「何、まさか、それだけ確かめに来たの?」
「どうせ忙しいだろう。遊んでなんかくれないじゃん」
そして吾川にコソコソ内緒話をして帰って行った。
「何て?」
「何が」
「え~、今コソコソしてたでしょ」
「そんなの、内緒の話よ。言うはずないわ」
深いため息をつくと吾川が舌を出して笑った。クソッとしかめた顔を見られて悔しくなって目をそらした。
新学期早々ついてない。今まで友達に対して真面目に接して来なかったツケなのか、みんなから適当に扱われて、それでも自業自得だから文句も言えず、
『良いじゃないか、その分やりたいことに没頭できる』ところが、この頃、そのやりたいことがぼんやりして、もちろん仕事はサボってないしピアノもかなり上達した。それだけでは何か物足りないと心に隙間風が吹く日があった。
「ボントールにもう一度会いたい」独り言を言った自分に驚いて口をふさいだ。これは本心なんだろうか…こんなに友達に囲まれて、からかわれながらもなんとか楽しく送っている毎日が不満なのか?
ボントールに会いたいなんて只事じゃない。武者ぶるいしてペダルをこぐ力を強めた。
「今日も、お願いします!!」
先輩にそう叫んで自分に活を入れた。
「ああ、この間渡した楽譜マスターした」
「はい。一度聴いてもらった方が良いですよね」
「そうだね。できれば僕もどこまで行けたか確認させてもらいたいけど…じゃあ、一回聴かせてもらおうかな」
この楽譜には特上の夏の思い出が詰まっている。僕はその楽譜を天国中の天国であるボントールのサーモンの小屋で仕上げた。当然、弾き始めると…瞼の奥に果てしない田園風景が広がって、心はあそこへ帰って行った。
懐かしい、そんなに長い日々を過ごしたわけじゃないのに、こんなに懐かしいのはいったいどうしてなんだろう。僕の頬に思わぬ涙が伝った。
「どうしたの?いつになく情緒的で気持ちの入った演奏だと思ったけれど…」
先輩は僕の涙を見て見ぬふりしてそう言った。
「夏休みの間祖父のところにずっといたから、田舎なんです。すごい何もなくて、星がきれいなところで」
うつむいて涙をぬぐった。
「純粋なんだな。意外だけど、もっとドライだって思ってたけど、それ以上に良いところだったんだね。おじいちゃんの田舎。
でも、レストランだから、今のはダメ。もう少し明るい感じで弾けるといいね。今のも悪くないよ。うん、曲調からいってそんな曲なのかもしれない。でもレストランで今の弾いたらみんな泣いちゃうよ」
そうだそうだ、感情移入の仕方が間違っている。これじゃあ湿っぽくて料理がまずくなる。
「明るく楽しくってもんでもないけど、もう一度やってみる」
「はい、もう一回やってみます」
なんとか軌道修正して、合格点をもらってレストランへ向かった。せっかく夏休み頑張った曲だから今日はこの曲も弾こうと、いくつかの曲に加えてこの楽譜も小脇に抱えた。
レストランでの演奏は、旅行に出る前何度か経験させてもらっていた。教会で弾くのと基本は変わらない。目立たず、邪魔にならず、雰囲気壊さず、でも、華やいだ空気は厳かな結婚式とは違った。レストラン用に選ばれた曲想に合わせ優雅に華やかに…
僕はスタッフ専用扉からそっと入って、ピアノの前に進んだ。
気持ちの半分くらいで弾こうと深呼吸した。思い入れで弾くと重たくなる。そこを上手く調節して気持ちの良い演奏になるように心掛けた。
心を込めて優しく軽く…
「園田さん、あいつ演奏家に向いてるかも知れませんね。ここの仕事じゃそのうち苦しくなるかも、もっと弾けるかも、そんな気がする」
「そうですかね。本間さんがそう言うならそうかもしれませんね」
三曲弾き終えて普通に席を立ちあがると、拍手が沸き起こった。何事かと顔を上げるとみんなの視線が痛いほど真っ直ぐで、自分への称賛だということに初めて気がついた。
「ほら、食事の手を止めさせちゃまずいでしょ」
「なるほど、おっしゃる通り」
拍手が鳴りやんだのを合図にそそくさとピアノを後にしようとした時、
「阿弥陀田くん…」
「ああ、吾川。あれ、どうしたの?」
「兄貴の結納なの。家族の顔合わせも兼ねて、せっかくだからここで阿弥陀田くんの演奏聴きながらって、山崎君が」
吾川が振り向くと山崎が手を上げて合図した。
「なんで吾川の兄貴の結納にあいつまで…あ、だから昼に確認に来たの?」
「まあまあ、みんな阿弥陀田くんのファンだから、料理食べるの忘れて聴きほれちゃったわ」
「やめてよ。それ、ダメだから、レストラン演奏者としてまずいから」
「あら、そうなの?」
かなり気持ちを抑えて、呪文を唱えながら演奏したつもりだった。なのに、全然そうならなくてがっかりしてスタッフルームに戻った。
「相当良い夏休みを送ったみたいだね。演奏に磨きがかかってしまった。一度ピアノコンクール受けてみるか…。君は演奏者向きかもしれない」
「ええ?演奏者向きって。はあ、よくわかりませんけど。でも、楽譜通り弾けてないってことですよね」
「まあね。でも、それがすべてじゃないよ。演奏を聴いてもらうためのディナーショーとかもプログラムにはあるんだから仕事が無いわけじゃない。当分今日みたいに抑えて抑えて弾いてもらうかな。それが苦しくなってからでも次の手はあるし。
でも、伸び伸び自分らしく弾いた方が近道だと思うけどね。君のピアノにとって」
「はあ」
どこまでも煮え切らない返事だった。
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