第18話 記憶の結晶
次の朝、目が覚めるとすでにボントールは起きている。隣の部屋からピアノの調べが聞こえていた。僕はこの機会を逃すものかとガバッと跳ね起き、音のする方へ走ってボントールの姿を探した。
小さな小屋に暮らす農夫にしか見えない老年のボントールは、今まで一度も聞いたことのない、リンゴの香りのするような小鳥のさえずりの聞こえるような、おおらかな曲を両手をいっぱいに広げて奏でていた。
「わしのファンだとエミールが言っていたが、気に入っている曲はあるのかな?」
僕の気配を察して、依然雄大な曲をレンガ造りのリビングに響かせながら、ボントールは振り向きもせず尋ねた。
「『世界行進曲』を子供の頃から気に入って弾いてました」
「『世界行進曲』とは、また、古典的な…あの曲を…サンミナルから来たと言ったけれど、もう、決断の館へは行った後かな?」
「え、あ、はい、今はピアノの演奏をする仕事をしています。夏休みに入ったので自由時間をもらって旅に出ているところで…」
詳しいことを言わないのはいつものことだった。
「ピアノ、弾いてみるか?それじゃ、『世界行進曲』やってみるか?」
「いやあ、自己流なところがあって…作曲した本人に聞いて頂くのは気が引けるっていうか、申し訳ないっていうか…どうしようかな?」
相手が偉大な作曲家なのだから、その本人に自分のつたない演奏を聴かせるのはどうかと、かなり不安な気分になった。
「しかし、ファンなんだから、弟子入りしようってんじゃないんだから、演奏が下手でも問題はなかろう。まあ、ピアニストとしてのプライドはあるのかも知れんがな、さあさあ弾いてみよう」
そう押し切られてピアノの前に座らされてしまった。あの先輩の前でも無心に弾けた度胸はどこに行ってしまったのか、頭の中が真っ白になって出だしのメロディに行きつくまで少々の時間を必要とした。
「世界行進曲」は、名前はデデーンと大掛かりだけれど、非常に優しいストリングスで始まる繊細な曲で、題名を聞いて驚いたのは、その曲の名前を知らなかったということばかりではなく、「そんな題名の曲なの?」と、曲想と違ったことも大きかった。
弾き始めると子供の頃のことがポツリポツリと浮かんだ。
二歳くらいの自分が水溜りの前で躊躇している。柔らかな午後の日射しの中から差し出される大きな手。靄のかかった画面の中にブランコやじゃボン玉の揺れる映像がプチプチと何かが弾けるような音を立てて現れる。
この曲はひょっとするとTVで観たボントールの弾いていたあの曲とは少し違う。今まで同じだと勝手に解釈して、二つの曲をゴッチャに弾いていたらしい。
子供の時、父から教えられた本当の行進曲は間違いなくこっちだ。そんなことが頭の中でグルグル回りながら下手したら初めて最初から最後まで完ぺきに弾いたのは今回が初めてではないかと全神経を集中させて弾き切る。頭がすっきりとなる。その印象は優しさと心地良さが交互に織り込められた恐るべき名曲だった。
「見事、見事、驚きの記憶力だな」
ボントールははしゃいでポンポンと大きく手をたたいた。本気で嬉しそうに僕の顔をまじまじと見た。
「実はわしはこの曲を、今まで一度も公の場で演奏したことは無いんだ。ファンレターにあったTVで見たというのは、この曲ととてもよく似た『世界の始まりのテーマ』という。多分、国営放送の記念のための曲じゃないかと思う。
『世界行進曲』という名前とその曲をこれだけ完ぺきに知っているお前は、さて…隠しておきたいところだったろうけれど、私の孫のシフォンだろうな」
そう笑って言うじいさんの顔に正体を明かさずにはいられない。幼い頃のか細い記憶をたどりながら弾き終えた指先の一本一本に、痺れるように思い出の糸が引いている。ジーンとして、得も言われぬ感覚だった。
「この曲は?」
「楽譜にしてない曲なんじゃ。特別の曲だったので…お前の親父に何回か弾いて聞かせた覚えはある。良くそこまで完ぺきに弾けたもんだと感心する。
音楽というものはそのくらい、個人的な気持ちの寄り集まったもので、楽譜にしたり、映像にしなくても満足なものじゃ。
意味はある。オーケストラでやるなら、他の人にもその曲を知らせる必要がある。そうじゃなければ自分の宝物の箱に入れて鍵をかけて置きたいものだと思う」
僕は言葉にならないものが込み上げてきてボントールに抱きついた。この曲はボントールが僕の誕生日に弾き上げたものなのだ。僕とボントールを会わせる魔法の鍵。それを忘れないでここまで持ってこれた自分が嬉しかった。
それから二週間の間、僕は田舎には似つかわしくないお城の離れ、いわゆるサーモン色のあばら屋で、ボントールの宝箱に入ったいくつかの曲を聞き覚えでマスターしながら、美味しい野菜を食べて暮らした。
執事のエミールが、何故作業服をラフに着こなすボントールの横で、あんなにきちんと襟を正して執事然とした態度でいるのか、それはエミール自身がこのボントール城の格式を重んじているわけで、誰に何を言われようと、自分は偉大な作曲家ボントールの執事だと、いつも自負している証拠だった。
泥だらけになろうともエプロンをして腕抜きをはめ、足には長靴をはいて作業に当たる姿は、衣装は極上であってもまるで修行僧のようだった。
時々肉などを持って訪れるファナムは、そんなエミールを少し馬鹿にしている。事情を知らないファナムには、そんな窮屈な、この農村に相応しくないなりをしているエミールという存在が理解できないからだ。
僕とボントールは洗いざらしのシャツとズボンで野原を駆け回り、あばら屋で寝起きして気ままに暮らしている。
身なりを整えたエミールは、そんな僕たちに付き合いながら、主がいつ帰っても快適に暮らせるようにお城を整えて待っているのだった。
それは、滑稽ともとれる姿だけれど、僕にはその意味がわかるような気がした。
ボントールに会えたことは本当に良かった。ボントールの作った「世界行進曲」を一つも違えず僕に教えてくれた親父の心意気が心地よく伝わって、いつか、いつか、わからないけれど、タイミングのいい時が来たら、礼を言おうと心に誓ったりした。
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