第17話 後編…鳩の飛び交う空

 ボントールに会うために天使の国に来ていた。

父親のルーツなんて今さら知りたいとは思わなかったが、祖父であるボントールの「世界行進曲」は相当気に入っている。人伝に自分の祖父だということを聞かされて、改めて曲の題名も「世界行進曲」と知らされた。今回の挑戦ですっかりDNAに摺り込まれてしまった曲。何度も弾いた思い出の曲。

「世界行進曲」のおかげで、寝ても覚めても頭の中を巡る音符との付き合いを、飽きることなく過ごす事が出来た。歴史に残る作曲家の手による作品は、心の中まで沁み込むように繊細で弾きやすく、息抜きに奏でるたびに心が洗われて初心に戻れた。

 その偉大な作曲家が自分の祖父だということも、ましてやその曲が自分の誕生日に書き上げられたという逸話も、何ひとつ聞かされもせず、芸術とは無縁で育ったわけで、もしその曲を気に入っているとしたら、そりゃあもう本物と言わざるを得ない。

僕は手放しにボントールの大ファンだ。

 一度会えるものなら会いたいとファンレターを書いてみた。ファンレターを書こうなんて行為は非常に人間的だ。と、思う。それ一つとってみても、この短期間で人の心の複雑さを、そうとう学んだと自分を評価したい。

 冴ちゃんは「家族って特権を行使するわけね」と、嫌味を言っていたが、この際そう思われてもいいから一度会っておこうと、そう決めて天使の国のトンネルをくぐった。

でも、家族だということはまだ、ボントールに伝えてはいない。ここまで知らないで育ったんだから今さら名乗り出るまでもない。体当たりで会ってみて、純粋にボントールとの距離を感じてみたいと思っていた。

 父親との再会に今一つドラマを感じられなかったからかもしれない。斜めに見て冷静を装っているが、意外な自分は、もう一度仕切りなおして感激してみたい気がしていた。


 返事にもらった地図をリュックの外ポケットに入れて、サンミナルの駅から列車に乗る。ボントールの執事からの手紙によると今は第一線を退いて、のんきに好きな曲を好きな時に作り暮らしているらしい。

 田園風景が奇麗なところだからのんびり馬車で来るといいと注意書きに書いてくれていた。

 この駅からどうやって馬車に乗るのか…列車を降りた僕は、一人ポツンと駅舎の前で、何もない高い空とどこまでも広がる耕作地をただただ眺めていた。

「さて、ここからどうしよう。ここまでしか考えてなかった」

 天使の国の観光案内など何処にもないから参考にする術がない。トボトボと歩く、駅の近くの想像を絶する広さの農場で働くそれは素朴な青年に声をかけて地図を見せると、執事の言う通り、馬車の荷台に積まれた藁の縁に座らせてくれた。

のどかな景色の中をゴトゴトと馬車に揺られて進む。

「この両脇の青いの、何ですか?」

「はあ?麦だよ。わかんないか~都会のもんだな。この景色は最高だろ。もう少し中に腰掛けて、ほら、藁をしっかり敷いてないとケツが痛くなるど」

「あ、はい」

 僕を都会の者扱いする。確かにこの景色に何ひとつ似つかわしくは無い。

「ボントールのところに弟子入りでもするのか?」

「弟子入り…それも悪くないですね。今回はそういうわけじゃないですけど…

それにしても見渡すかぎり、麦ですか?家なんて見えないけど…」

「そうそう、かなりかかるね。ちょっとスピード上げるか。つかまってなよ」

 馬車の横揺れが激しくなる。ボントールがどこに住んでいるのか、ここは天使の国の楽園?なのか?究極の天使の村。そののどかさは今まで見た何よりも壮大で、可笑しいけど、そんな感覚がガタガタと揺れる全身をでこぼこしたリズムで包んでいた。


「ここだ~林道があるだろ、真っ直ぐ行くとたどり着くから行ってみろ」

「ありがとうございます。すみません仕事中断してしまって」

「なんの、なんの、またな~」

 そう言って、青年は踵を返して帰って行った。

 真っ直ぐ伸びる林道の小道。文明なんてどこにもないような隠居暮らし…

荷物を肩に掛けなおして歩き始める。ボントールの情報は、映像で見たピアノを弾く姿。子供の頃父親から渡された古い楽譜。何度も何度も弾いて自分の体に染みついた思い出の曲。それ以外なにも無いのだった。

 家は…林道の突き当たり、突き当たり…大きなクスノキを背景に非常に質素なというか、素朴というべきか、この中に偉大な作曲家ボントールが住んでいるなんて想像もつかない程な、薄いサーモン漆喰のあばら屋だった。

「こんにちは、こんにちは、サンミナルから来ました」

 そう叫んでいる向こうには、きちんとタキシードを着た、まったくこの景色にそぐわない、執事とでも呼ぶべきなんだろうか?服装だけは格段に正装をした男が立っていた。

「ああ、サンミナルから、本当に着きましたか。只今ボントール氏は、外に、この向こうに小さな温室があるので、そちらで野菜の収穫をしています」

「行ってもいいですか?僕そっちへ回ってみます」

「では、案内をします」

「あ、すみません」

 なぜこの場所で、一面の農村地帯で、あんななりをしているのか?住まいのあばら屋っぽさと執事の形っ苦しさが一つもマッチしないことに心が乱れた。

 執事の後にトボトボとついて行くと、クスノキの向こうに、さっき見たあばら屋より立派な温室が、だだっ広い麦畑の隅っこにちょこんと建っていた。もちろんその向こうにはこっちが母屋か…と納得させる豪邸が細やかに清潔に整備されて建っていた。

「いや、これは、ちょっと…」

 親父に会った時も感じた不釣り合いな自分。たかが一、二曲仕上げただけの自分が来て良かった場所なのかといっきに、自信を失くした…

 ボントールは汗をぬぐいながら温室から顔を出した。

「誰?今日は客の予定があったのか」

「前にファンレターとやらを送ってきたサンミナルの青年でございます。ほんとに来るとは思わなかった」

 執事はあくまでボントールには恐縮至極で僕に対しては普通に接した。

「こんにちは、この地図を頂いてやってきました」

「ほう、ここまでどうやって、遠かっただろう」

「駅前の農場の青年に送ってもらいました」

「ファナムか…そういえば最近会っとらんな。ここまで来たんなら顔を見せろと、今度会ったら言ってやれ」

 そしてぶつぶつと独り言。気難しいのかそうでもないのかこの一瞬では測りきれなかった。

「腹はすいたか?」

「ああ、そう言えば…」

 何も食べてなかったことに気がつく。自分が思うより緊張しているらしい。

「あははは、採ったばかりの自慢の野菜を御馳走するかな」

 そう言ってもと来た道をたどり、サーモン色の壁に取り付けられた木製の扉を開いた。どうやらこっちが本拠地らしい。

「ん、この家じゃ不服か?」

言葉の無い僕に睨みつけるように話す。

「手元に全てがそろった方が暮らしやすいと言うもんだ。キッチンも小さいし、ダイニングもちょうどいい大きさだ。大きっけりゃ良いというもんじゃない。ほどほどというのがわしは好きだ」

 中に入るとそれほど小さくもない。ボントールの言うとおり、ほどほどより少し大きい丁度良い大きさの館だった。

 質素と言うのとも違うのかもしれない。新鮮な野菜はキラキラと輝いている。どこから仕入れるかわからないハムも豪勢な大きさで出してくれる。必要な物が何もかもそろっているこの暮らしが不自由なわけがなかった。

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