第10話 給水塔
「シン!」
「あれ、冴ちゃん…何?」
教会の扉を細く開いて、冴ちゃんが顔を覗かせた。
「こんばんは」
「彼女?」
先輩が指差して尋ねる。
「そんな、同級生の冴ちゃんって、親が友達同士で古い付き合いなんです」
「へえ、そんな子がいるとはね」
「今終わるから。外で待ってて。すぐ行くから。すいません片付けて帰ります」
僕はただ慌てて、取るものも取り敢えず広げた楽譜を鞄に詰め込んで、先輩に挨拶して飛び出した。これじゃあまるで恋焦がれている彼女の元へ一刻も早く駆けつけたい男に見えるだろうか。
本音を言ってしまえば、先輩にあれこれ詮索されたくない気持ちが強くてああなった。
「何?どうした、教会に来るなんて驚いたよ」
そう言うと冴ちゃんはいたって冷静に、
「中には入れてくれないのね」
「当たり前だよ。あそこは神聖な職場だからね」
「神聖…」
「何…だから」
冴ちゃんの肩からため息が漏れる。
「あの塔に登らない。一度昇ってみたかったの。風に吹かれてのんびりしたいなって」
のんびり…そんな気分じゃない。と言ってしまったらまた気分を害する。仕事も終わった後で断る理由もすぐには見つからなくて、高く聳え立った塔を眺めるしかなかった。
「あれ見て。皆んなで待ち合わせたレストランでしょ」
「そうかな。冴ちゃん女のくせに方向音痴じゃないんだな。そういうのは女は苦手らしいよ」
「男と女って何が違うんだろう。私はあんまり違いを感じないんだけど」
「確かにそんなに違わない。でも、優しい雰囲気はあるよね。なんか支えてくれるみたいな。あ!朝ケ谷、上手くいってるみたいだよ。告白されたって今日戸惑ってた。満更でもない感じだったけど、正直どうしたら良いかわからないみたいだった」
「ああ、雪野ちゃんのこと、まだ早いって言ったんだけど、ボロボロになってる朝ケ谷君を励ましたいって、それは言ってた」
「励ますね〜励まされてるよ。確かにね。なんだ…冴ちゃんが後ろで操ってるのかと思った」
「まあ、そんなことしないわ。前にも言ったけど経験浅くて自信ないし」
そう冴ちゃんの口から聞くとホッとして、二人でいるこの時間がちょっと違うものになった気がした。
「あ、あんまり景色が綺麗で忘れてた」
「なに、また何か思いついたの」
しおらしくしてるからこっちもいい気分に浸っていたら、またいつものように難題を押し付けに来たのかと身構えた。
「新たな試練とか言われそう?違うよ。会ったの、多分そうだと思うんだ。マヤに、私はそうだと思うんだ。気づいたの、でも、マヤはどうかな…」
「何処で?何処でだよ!なんかピンと来るんだよね。確信はないけどって曖昧な感じで。声かけた?」
「ううん、でもまた会うわ。県対抗のバスケの試合会場にいたの」
「バスケ…マヤが?」
「うん、向こう側、私と反対側にいて、人が多くて近寄れなかった。でもわかったマヤだって、絶対マヤだって」
「学生服来てたの。あの、どっちだった。女それとも男」
「どっちだと思う?」
「マヤなら男のような気がするんだけど…女かな、どっち?冴ちゃんで間違えてるからな」
「女だった。制服がよく似合ってた。私は男になるってシンは思ったんでしょ。きっとマヤもそう思ってる。だから、私のことはわからなかったんじゃないかな。そう考えれば…」
「今度の試合の時確かめてみよう。もう四ヶ月。ずいぶんになるな〜別れ別れになってから。会いたいな〜性格変わったかな。マヤって出しゃばらない良い奴だったよな。決める時は決めるって芯の強いところはあったけど」
冴ちゃんにじっと見つめられてドキッとした。
「何?」
「なんかマヤのことになると雄弁ね」
「からかうなよ。当たり前だろ、自分たちで見付けないと見つからないんだぞ。探す人がいるって凄い」
僕の純粋な気持ちは冴ちゃんには伝わらないみたいだった。
眼下に広がる光の海。一つ一つの明かりの輝き。この無数の光の中からたった一つを見つけるのは大変なんだ。僕たちは幼馴染で小さい頃から遊ぶのも、勉強するのも一緒だった。友達とひと口に言ってしまえない繋がりがあった。
だから確信が持てる。冴ちゃんがマヤだって言うなら、そうに違いない。きっと直ぐそばにいる。マヤに会うのが楽しみだった。
風に吹かれながら誰に見られることもなく360度見渡せる、座るのがやっとのこの塔の上に、羽なしで座るのは恐ろしい。僕たちは羽を寄せ合った二羽の小鳥のように並んでいた。
「人間の世界に来て初めてなんじゃない。ゆったりとした時間。あなたはずっと片意地張って忙しくしてたでしょ」
「別に普通だよ。何も意地なんか張ってないさ」
「そう?なんか仕事仕事って脇目も振らずだった気がしてる」
「打ち込んでみたい時ってあるじゃん。無性に…今はこれだなって」
何をして良いのかわからなくてイライラする時や、自分の気持ちの置き場がなくてふわふわしてる時、すがるものがあると助かる。それが僕にとっては仕事だった。この世界に履歴のない自分をどうすればらしくしていられるか、それが課題だった。
「風が気持ち良い〜」
この風景は普通じゃ見られない。星空と夜景が海のように広がって、その中に僕ら二人だけポツンと浮かんでいる。人間界に来てから四ヶ月…忙しかったな〜。ようやく深呼吸した。そんななんとも言えない気分だった。
「シン、今度わたし達の絵の展覧会があるの。見に来て!それが終わったら山崎君アメリカに行くんだって…わたし達の『エピソード2』も終わりね」
「そうでもないよ。吾川と山崎上手くいってるみたいだし、なかなか冴ちゃん健闘してるよ」
「本当!二人とも私には何も言わないわ。なんで〜」
「照れくさいからだよ。人は照れくさいと意識しすぎたり、余計なこと言ったりするみたいだ。きっと男と女って面倒くさいものなんだな。格好良く思われたかったり、モテ出すと今度はそれが照れくさかったり、素直に生きるのは大変みたいだ」
「ふうん、勉強したのね」
「まあね。好んでやったわけじゃないけど、知らず知らず勉強させられたってとこかな」
男になった僕は、女になってしまった冴ちゃんに、何でも話せなくなった。自分の気持ちを隠したり、逆さまのことを言って煙に巻いたり、そんな毎日だったと改めて思った。
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