第9話 男気
それから3週間ほどして、僕は先輩から合格点をもらった曲を、始めてパイプオルガンで試し弾きすることになった。
ようやく此処まで来れたかと感動したのも束の間、しばらくその練習のために、教会の空いている時間はパイプオルガンにかじりついて何度も何度も繰り返し弾いた。
「どう、難しい?」
「あ、なんか弾いた時と音が鳴る間に微妙なタイムラグがあってそれに慣れなくて焦れったい感じ」
「体力要るから鍛えると良いかもね。ピアノもだけど本気で弾くにはかなり筋肉使うね」
「あ…鍛える」
瞬発力で乗り切ってきた体には筋肉がなかった。人間界で行きていくには筋肉が必要なんだな〜道理で先輩の体は引き締まっている。
「自転車に乗ってるじゃない。あれだって良い運動になってると思うよ」
「なるほど、いつも楽な道を探して此処まで来てるからもう少しタフな道を探してみよお」
「良いね〜そういう前向きなところ。それより前から気になってたんだけど、君、社長の息子なの?」
「へ、バレてる…」
「そりゃあ履歴書にね。一応目を通したし、珍しい苗字だからちょっと偶然の一致って無いかも」
「そうか〜あれを奪わないと秘密は守れなかったな」
頭をかく僕を見て先輩はクスクス笑った。
「親子か〜僕はね、孤児院で育ったの。父と母が子供の時事故で死んで、天涯孤独だったから、此処に来てしばらくした頃、教会にあったピアノで遊んでいる時、君のお父さんに声かけてもらって、その道に進むように言われたんだ。
凄い感謝してる。食えるって大事だろ。見る目あるなって、友達もいろんな仕事に就いてどれも上手くはまってるから」
「そうなんだ」
屈託なく話す先輩に返す言葉がなくて大きなため息をひとつ深くついてしまった。
「あれ、君らしくないね。気にすることはないよ。そんなに不幸って思ってないから。何でも自分の思い通りにならないと思ったこともあるけど、努力って実を結ぶでしょ。頑張ってると道が開けるみたいな」
「そう、そんなふうに思うんだ」
「社長が言うんだ。自分の好きな事が人のためになるって」
「…」
「だから心を込めてピアノを弾く。ただそれだけ。そんな人生も良いでしょ」
「うん、良いと思う。僕にはまだ形にする面白さしか実感できなくてそれでいっぱいだけど」
「面白いことをやり続ける意義は大きいね。それを面白いって思う人がいる。その事実に驚かされる」
先輩の考えはひたすら邪念がない。それが育ちから生まれるとしたら、不幸って感じることで逆の思考になる場合もあるとしたら、何でもありだなと思う。
「ちなみにその孤児院はこの敷地の中にあるよ。院長は当然社長。今度遊びに来ると良いよ」
「まさか、今もそこにいるの」
「その中に此処の社宅もあるから、近いから呼び出される。始めてあった時みたいにね」
「あ〜だから着の身着のまま…あ、失礼かな。でも、だから来れたんだ。僕なんてあの格好で公道走って来たってずっと思ってたから」
「まさか、それこそありえ無いよ。これでもスタイリッシュな方だと自分では思ってるから」
スタイリッシュ?それは少し違和感のある響きに聞こえた。先輩は素敵だけどもっとスタンダードな紳士的な素敵さだった。
「園田さんがシンにピッタリの衣装作ると張り切ってたよ。初披露の時は凄く喜ぶんじゃないかな。彼女ああ見えて感激屋さんだからワクワクしてたよ」
それは益々気恥ずかしい話だった。衣装まで着せられて演奏するとなるとガチガチに緊張して実力を発揮できなんじゃないか…
朝ケ谷の疲れはピークに達していた。もともと秀才肌の朝ケ谷が朝練で始まる毎日に耐えていることの方が不思議だった。
でも、そんな朝ケ谷を見守ってくれるマネージャーもいるらしい話も聞いたし、続けられるものならこの先も頑張って欲しいと陰ながら応援していた。
朝のこの時間はいつも、そうはいっても後ろめたくて、朝ケ谷の気配だけ感じてやり過ごしてきた。
「おはよう」
「え、あ、おはよう。珍しいな。お前が挨拶なんて…僕に関わるなってオーラ出しまくってるくせに」
よく解ってる。この短期間の付き合いで把握できるほど僕の性格は単純じゃないはずなのに、まあ付き合いにくいとか、もろもろ面倒くさい感じはもろ伝わるだろうけど…
「まあね。朝ケ谷が気に食わないわけじゃないから、そのまあ、いろいろ…」
「お前を見てると良い奴だと思うよ。性格もサッパリしてるし男気あるし」
「男気…」
その話前にも聞いたなと苦笑いする。
「ただ、付き合い悪いのが決定的なマイナスだな。でも、何でも付き合えば良いってもんじゃないってお前を見てると学べる。そこは大いなるプラス点だな」
単純なようでわかりにくい方程式が頭の中を駆け巡った。
「練習見に来いよ。朝なら少しは時間あるだろう」
沈黙…
「あ、ああ、考えてみるよ」
絶対考えないだろうなって顔で、朝ケ谷が一瞥した。
「お前勉強は?」
「まあ、何となくやれてる」
「なんとなく…そう、勉強も出来るんだな」
勉強が得意ってわけじゃない。でも、時間がない御陰で授業が終わってすぐ宿題を広げるから、新鮮なうちに片付けるのが今の所上手くいっていた。
「おはよう」
「あ、おはよう」
この頃隣の席の吾川の様子が少し変化して雰囲気が柔らかくなった気がする。前は賢さばかりが突出して、声もかけにくかったのに。
「この頃山崎と会ってる?」
と聞くと驚いて目を丸くした。
「え、ええ」
きまり悪そうに答える。
山崎からは時々連絡が来る。吾川の話をするわけではないが、上手くいっていそうな空気は伝わってくる。
「そう言えば山崎君に聞いたんだけど、ピアノの新人コンクールがあるって受けてみれば」
「へえ…」
「ずいぶん上手くなったって聞いたよ」
「そうかな」
自分にそんな実力があるとは思えない。仕事で弾いているだけでコンクールなんて考えてない。あくまで仕事というスタンスだった。
「山崎君、夏休みから留学するんだって」
「え、長く行くの」
「3ヶ月位。元々彼のご両親は向こうにいるの。行ったついでにしばらくいるって」
「こっちはひとり暮らし?」
「さあ、そこまで聞いてないけど…」
その辺りまで話したところでお決まりのチャイムが鳴り、1時限目が始まった。
「お前、留学するの?」
「あれ、誰に聞いた?」
「吾川」
「そんなこと言ってた」
「ああ」
「さみしそうだった?」
「…」
わかんないもんだな。二人が付き合ってるかどうかは知らないが、何だか親密で入る余地がないっていうか、話してるとバカバカしくなった。山崎は片思いが良いと言っていたはずだから、その後進展したとは考え難い。なのに、この反応はいったい…からかわれてるんだと思ったほうがわかり易い。
「くそっ」
思いっきりペダルを踏んで走り出した自転車が何かに絡まった。
「なんだよ」
絡まったと感じたのは朝ケ谷の腕で、自転車の荷台をしっかり掴んでいた。
「ちょっと話がしたんだけど」
「はあ、僕急ぐんだけど」
「そこをちょっとでいいから」
朝、朝ケ谷に気を許した自分に後悔した。
「ごめん。時間が…」
時計を気にした。そして自転車をもとに戻した。
「悪いな」
「なに?」
時間をもらって仕事場に連絡する。少し遅くなるって許可をもらう。
「マネージャーの雪野ちゃんに告白されたんだ」
「はあ?」
冴ちゃんの顔が浮かんでは消えた。
「お前クラブは?」
「なんか動揺しちゃって、行き辛くて…どんな顔して良いのかわからないし。阿弥陀田なら慣れてるんじゃないかと思って」
「まさか…そんなわけ無い。何時、何時告白されたの」
「昼休み。教室まで来たんだ。ちょっとって呼ばれて、廊下で」
間抜けな朝ケ谷の顔が浮かんで思わず笑った。
「ひどいな。笑うか」
「だって可笑しいだろ。最高に。何で告白されたお前が悩むわけ」
「いや、お前だって悩むと思うよ。突然告白されたら。経験ない?」
「ないない。何回も聞くなよ。それに、モテたくて弓道部に入ったんだろ。計画通りって喜べよ」
「そうはいかない。相手が可愛過ぎる」
今日は厄日だ。多分こういう日を厄日と言うんだ。山崎といい朝ケ谷といい、相手なんかしたくない。何で告白の対策をされたこともない僕が考えられるんだ。
「とにかく何でもなかったみたいに今日は過ごせよ。僕ならそうする」
「ショックになったりしないかな。反応しないなんて。雪野ちゃん来てるだろうな」
「おい、おい間抜けだな。全く」
本気で座り直して話を聞こうと思っても気持ちが拒絶する。これが恋ってやつか…やっぱ考えるのは面倒くさい。慣れと言うより性に合わない。天使としての資質など初めから無いらしい。
「何で僕に聞こうとするわけ」
「冷静だからな。こういう時は焦っちゃ駄目って、それは解る」
「なるほどね。朝ケ谷は雪野ちゃんだっけ、好きなの」
「わからないな〜経験ないからね。わかんないんだよな〜」
「じゃあ好きでいいじゃない。ありがとうとか、嬉しかったとか言っておけば」
「そんな適当」
「適当じゃないと、確信に触れるとマズイ時もあるでしょう」
「ふ〜ん。なるほど」
「ゆっくりはぐぐま無いと、駄目でしょう。ね、そんなとこで、じゃあ僕行くよ」
「そんなもんかもな。あ、ありがとう」
恋は実っていくものらしい。冴ちゃんの得意そうな顔が目に浮かぶ。きっと知恵を貸したな。と感心しながら、自分の周りで出来上がっていく恋に計り知れない不気味さを感じていた。
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