ミンミンゼミのいない夏

梁川航

第1話

 八月中旬。京都の下宿で腐った俺を訪問した天王洲は、おもむろに言った。

「京都にはミンミンゼミがいないんだよ」

 天王洲のうなじには汗の玉が浮かんでいる。短めの髪は黒いヘアゴムでまとめられていた。

 どういうことか尋ねると、

「セミは気候によって分布が違うから。関東では街中に溢れてるミンミンゼミも、関西の方だと存在しないらしいよ」

 確かに俺は今年ミンミンゼミの声を聞いていない。クマゼミだけがやけに賑やかに鳴いている。

「夏は暑くて冬は寒い。そんな終わりの街には、ミンミンゼミも住みつかないんだろ」

「高木は本当に京都が嫌いだね。なんでこっちの大学に来たの?」

「知ってんだろ。東大に行きたくなかったからだ」

「今の気持ちは?」

「東大に行きたい」

「来なよ。歓迎するよ、後輩くん」

 天王洲はにやりと笑う。

「東大は編入制度がないんだよ」

 だが俺がそう返すと、

「わざわざ調べたの? 殊勝だねぇ」

 とあきれ顔をした。

 天王洲は高校時代の同期だった。同じPC部に入っていた。俺は天王洲のことが好きだった。恋愛的な意味で。

 だが俺はチキンである。何もできなかった。何もしなかった。三年間たっぷりあったのに。

「……なんか今、お雑煮が食いたい気分なんだよな」

「つまりは実家に帰りたいってこと?」

「ああ」

「じゃあ帰ればいいじゃん? 夏休みなんだから。その気になれば二ヶ月東京にいることもできるじゃん」

「それは負けたみたいで嫌なんだ」

「……本当に面倒臭いね、高木は」

 天王洲は呆れた顔をする。それからおもむろに腕時計を見ると、

「そろそろ行かなきゃ」

 時刻は午後九時だった。

「送るよ」

「そりゃありがたい。さすが学年三番の秀才だけあるね」

 天王洲はいたずらっぽく笑った。


 当たり前だが外は暗かった。景観条例で街灯の本数が制限されている京都だ。実家――東京と比べると、視界はだいぶ心許ない。

 天王洲は親戚の家に遊びに来ていた。叔父さんが住んでいるらしい。叔父に顔見せするという名目で、天王洲は四月から毎月京都にやってきていた。その度に俺の下宿に足を運んでは、やれ「意外と綺麗だね」だの「でも男子大学生って感じだね」だの「うわっ、ペットボトル溜まってんじゃん。捨てなよ」だの色々と言い残して去っていくのだった。

 市バスに乗って東山三条まで下る。

「バスまで着いてくる必要、なかったのに」

「暇なんだよ、友達いないからな」

 そこからは地下鉄東西線に乗り、目指すは太秦天神川だ。

「知ってるか。関西だと地下鉄っていうアクセントなんだよ」

「地下鉄……。変なの」

「俺たちの地下鉄もそう思われてるよ」

 太秦天神川の駅は閑散としている。天王洲の叔父叔母の家は駅から十分ほど歩いたところにあった。

「ここまででいいよ」

「ああ。じゃあな」

「うん、また明日」

 天王洲は去っていった。ヒグラシが悲しげに鳴いていた。


 次の日、天王洲は新幹線に乗って帰る。その前に俺と天王洲は京都タワーに上った。

「形はヘンだし、高さは低すぎだし、景色はそこまでだし……なんなの、この京都タワーって?」

 入場料の高さも相まって、天王洲は不満そうに口を尖らせた。

「ただの京都の恥だ」

「もう少し頑張って欲しかったよ」

 とはいえ入場料分の元は取ろうと、天王洲は円形のガラスに沿って景色を見始める。金魚の糞のように天王洲の背中を追う俺は、おもむろに話しかける。

「東大はどうなんだ?」

「みんなちゃんと勉強してるよ。進振りがあるからね」

「大変だな」

「でもわたしみたいに手を抜いてる人は抜いてる。つまり普通の大学かな」

「……こっちと同じだな」

 天王洲は手すりにもたれかかる。

「つまんないよね、大学」

「……それを口にした時点で負けな気がする」

「いいじゃん、事実なんだし。……よっぽど高校時代の方が楽しかったような気がするよ。部活に文化祭に体育祭に修学旅行。イベントが足りてないよ、大学は」

「サークルであるんじゃないか?」

「サークルは消化試合みたいなものだから」

 天王洲も俺と同じくらいには大学に向いていない人種だった。


 京都タワーを降りて、駅ビルでラーメンを食べる。そのあと大階段を上って屋上に出た。

「うわぁ、凄いね」

 眼下に広がる線路を見て、天王洲は声を漏らす。

「意外と人も多くない。京都の穴場だ」

「これがあるなら京都タワーいらないんじゃない?」

 まったくその通りである。

 俺と天王洲は花壇に座って数十分話した。さすがに高層階だ、セミの鳴き声は聞こえない。ただ京都らしい不快な暑さが俺たちの肌にべったりと張り付いてくる。

 ふと、今がチャンスだと思った。告白の。

 ちょうど会話が途切れた。話を切り出すなら今だ。今「実は」の「じ」さえ言えれば、その後は口が勝手に喋ってくれる。

 俺は口を開いた。

 そのとき、

「そうそう、木場くんがどこ行ったか知ってる?」

 天王洲が言ったので、俺の試みは今回も失敗に終わった。通算何回目だろう。少なくとも、数えられるほどじゃない。

「……どこに行ったんだ?」

「旭川の医大だって」

「へえ」

 そのまま雑談は続いた。俺は天王洲と雑談しかできない。


「あ、そろそろ時間だ。行かなきゃ」

 東海道新幹線の終電が近づいていた。

「送ってくよ」

「今度はどこまで着いてくるつもり?」

「できれば東京まで着いてきたいんだが、今日は改札の手前までで勘弁しておこう」

 実際入場券を買う金はない。京都タワーに吸い取られたから。

 天王洲が切符を挿入して改札を通る。

「じゃあね、高木」

 手を振って天王洲が背を向けたあとも、俺はしばらく天王洲の様子を見ていた。

 大きめのリュックを背負った天王洲は、いったんホームに上がろうとして、それから何かを思い出したかのようにくるっと方向転換すると、天王洲は男子トイレに入っていった。

 俺はそれを見届けると、人混みにもまれながら市バス206系統の乗り場を目指した。

 喧噪に紛れてクマゼミとヒグラシの声が聞こえた。

 京都の夏に、ミンミンゼミはいない。

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ミンミンゼミのいない夏 梁川航 @liangchuan

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