お焼香

川谷パルテノン

 「ちょ! 兄さん! 焦げてる焦げてる!」

 艶やかな長い髪が燃えていた。あまりにも長い一礼はその黒い絹糸を香炉に浸し、導火するには充分な時間だった。お焼香に失敗したくない。人付き合いも少なく、ろくに社会経験もない引きこもりがちな兄の痛切な願いであった。せめて人らしくあるべしと、葬儀の予定もないままに焼香の練習をしてきた甲斐あってそれまでの所作は常識知らずの兄にして完璧と言わざるを得なかった。僕自身感動さえ覚えたが最後の最後に兄は長い一礼をした。髪を束ねぬままに前屈みになればそれが火元に乗り移り、ちりちりちりとその毛先を焼き始める。燃えとる。兄を見守る視線の中に煙が一筋、二筋三筋。僕は思わず立ち上がって冒頭の如く叫んでしまった。


 兄は些かひ弱だった。弟よりも背が高いことくらいしか自慢もなかったが僕が高校生になる頃にはそれもなくなった。どうも内気な兄を僕は外の世界を広げるにつれて陰気臭いやつだと思うようになり、兄弟同士で話すことも同じ屋根の下に暮らしながらほぼなくなっていた。

 そんなある日、兄は突然リビングに降りてきて、一人でテレビを見ていた僕に声をかけた。「お焼香に失敗したくない」久しぶりの兄の声だった。何言ってんだコイツというのが正直な反応で、葬式の予定でもあるのか? 人付き合いのないあんたが? と聞けば無いと言う。とうとう気も触れ始めたのかとため息が漏れた。兄は目尻に涙を浮かべて焼香の作法を教えてくれと願いでた。あまりの気迫に僕は頷いた。そこから兄と少しだけ話した。自分がこのままでいいとは思っていないこと、しかし中々染まりきった生活を変えられないこと、それでも別れの時は人らしくありたいと、だから焼香に失敗したくないのだと言い出したこと。僕にはさっぱり理解出来なかったが兄の頼み事には応えたいと思った。

 教えたことを健気に練習していた兄はある時こう言った。「なんだか社会に属したみたいだ。ありがとう」何言ってんだか。兄が倒れたのはその日より間も無くしてからだった。

 からだの弱かった兄の病状はみるみるひどくなってそこから半年と保たなかった。せっかく練習してきた焼香を披露する機会もないままに。莫迦野郎。なんのために。僕は。兄さんは。


 だから今、目の前であの長い髪を燃やし尽くさんとする兄は自分にお別れを言いに来たのだ。小さな世界に生きた兄らしい最期の別れ。じつに見事な所作だった。きっと最後の最後にした長い一礼が彼の人らしさだった。やがて煙となって立ち昇る兄を目で追いかける。その逆方向に雫が垂れ落ちた。兄さん、さようなら。

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お焼香 川谷パルテノン @pefnk

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