幸太郎とレシピノート

「はあッ、はぁッ……!」


 鯛カレーの約束を交わしてから数日後。昼間の百間町を、全力で走る幸太郎がいる。いつもなら行き先は高倉食堂だが、今日は違った。たった今、彼が足を踏み入れたのはこの地域で一番大きい医療施設『水俣病院』の入り口。


「カヨちゃん、今行くけぇ……ッ!」


 幸太郎は目と歯を食いしばって、病院の廊下を走っていく。本来なら休憩時間だが彼を急かすのは、突然過ぎる知らせを耳にしたからだ。幸太郎は、急患の病室の扉を無理矢理開けた。


「カヨちゃあんッ!」


 名前を呼んだ直後、幸太郎の視界に夢でも見ない光景が飛び込んだ。病室のベッドに横たわるカヨの顔に、白い布が被さっていた。


「か……?」


 頭の中が白で上塗りされる幸太郎の視界に、地元の漁師と化学肥料の工場長の姿が乱入する。そこにカヨの担当医師が背後から近付いて、重い口を開いた。


「彼女は……工場排水によって、汚染された魚介に含まれる水銀化合物の過剰摂取で中毒症状を起こして、そのまま——」

「こうじょ……はいす?」

「どぎゃんすっと! あたんらせいたいッ!」


 漁業協同組合の漁師と思われる男が、怒号を上げる。それは、幸太郎も見た事ある人物だった。あの日も波止場で工場上層部を諭していた。


「彼女だけじゃなか! こん病院におるもん、そうようば漁民たい! 湾内ば獲ったいを食って、病気になったと! オルの子どんも、毎日手足ば痙攣しっぱなしじゃ!」

「ですから、補償金は出すと言っているでしょう! そもそも、直接的原因は魚であって我々に責任があるとは——」


 病室で言い争いが始まるが、幸太郎には何も聞こえなかった。彼の中から、怒りでも悲しみでもない何かが湧き上がってくる。


「なして……オイじゃなくて、カヨちゃんばい?」


 幸太郎はふらり、ふらりと二度と目を覚まさないカヨに近付く。しかし、足取りが覚束ない。この現実を背負いきれないのだ。


「ここば、生まれたんに。ここば、いを食って、ここばずっと暮らしてるんに。なして……なして、オイじゃなくてカヨちゃんが死ぬばぁあい!」


 幸太郎は病室に跪いた。そして拳で、何度も床を叩く。彼の中で暴れるのは、カヨを公害病から遠ざけられなかった無念、周りに無頓着だった自分に対する苛立ち。


「こンのボンクラ頭がぁ! オイが先に病気なりば、鯛がよかと言わんぎゃ、こなぁことならんかったんじゃあッ!」


 医師と漁師と工場長は、叫ぶ幸太郎を見るや唖然として言葉を失う。この結末は気付くきっかけさえ掴めば避けられた。だからこそ、自分に悪運が巡って来なかった事を、ひたすらに呪う。


「こな腐った場所で、腐った身体で、生きとうない……」


 絶望と後悔に押し潰されそうになったその時。さやわかな香りが、幸太郎を慰める。鼻でそれを追いかけると、病室の床頭台にカヨのノートがあった。


「……カヨちゃ……」


 呼ばれたように幸太郎はノートに手を伸ばし、ページを開く。すると何かが紙の間に挟まっていた。それを手に取ると、草笛の音色が、苦味が、口の中で再現される。



 ——『ローレル』てな、肉と魚臭み取るん適してんよ——



 ローレルを持った瞬間、幸太郎にはカヨの声が聞こえた気がした。そのノートには、カレーのレシピが凝縮されている。最高の鯛カレーに辿り着く為に、何回も味見したのだろう。ページを何枚かめくると、ある書き込みが目に止まる。



 好きがこもった鯛カレーを 作りたい


 幸太郎さんがいる 熊本で  作りたい



 それを見た幸太郎の口内が、唾液で潤う。一から作った自分の料理を作る。それがカヨの夢。そして『鯛カレー』はだ。叶えたい、約束だ。それを胸に、幸太郎はローレルに語りかけた。


「——カヨちゃんの夢ば、人生ば……ここで絶対に終わらせん。九州男児のオイに、任せろ」


 幸太郎は決意する。好物が入ったカレーを、一目惚れした彼女が作り上げたカレーを。二人を繋いだ熊本県水俣市で完成させると。そして、ローレルを見つめる先にある、汚染が止まらない海に向かって言った。


「ローレルば、臭みを取る材料たい。——オイば、しゃんむり絶対なんとかするばい」

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