幸太郎とカヨとローレル
午後十九時。百間町は夜の暗闇に包まれる。本日の業務を終えて、若者達が次々と工場から退勤していくが、聳え立つ煙突は綺麗な星空に怪しい灰色を混ぜていく。
「ふぁあ……はよ、
街灯の少ない道を幸太郎は欠伸をしながら、丸一日
「カヨちゃん……カレー作りば、しんどなかと?」
空腹も相まって、幸太郎はカヨの事が気になって仕方がなかった。彼女を悩ませる食堂新メニュー作り。困っている彼女の顔を見て、黙っていられる彼ではない。
「だぁーッ!
こっちまで悩んでも仕方ないと、幸太郎は百間の夜道を駆けて高倉食堂を目指した。店はとっくに閉まっている時間だが、彼女はいると確信して全力疾走で平地を抜ける。
四月下旬の海辺の熊本県、百間町。吹き抜ける潮風は海の冷たさを運んできて、春にしては肌寒い。着ているタンクトップも汗や汚れで男前なグレーに染まっている。後ろポケットに挟んだタオルを靡かせ、退勤する工場職員を追い越し、幸太郎はそのまま高倉食堂の近くまで辿り着いた。
「はぁ……、はぁ……。やっばし店ば、おんなはる……」
息を切らす幸太郎の目の前にある高倉食堂は、準備中という看板が入り口に立てられているが明かりがついていた。ステンレスにガラスをはめた扉の向こうで、机に向かって何かに取り組むカヨの姿が見えて、幸太郎は勢い任せに入店した。
「カヨちぁゃんッ!」
「なああッどってん⁉︎ って、長尾さん——どすたの?」
「あんな、オイに出来ること……なか?」
カヨは幸太郎の真剣な顔にキョトンとする。彼女が座る食堂のテーブルには、ぎっしり文字が書かれたノートと色々な香辛料やスパイスが入った小瓶が並んでいる。
「カヨちゃん、
「おお……そら、すこたま嬉しけんど、わじゃわじゃおらんたんめ時間使わせんの、長尾さんにめやぐやし……」
「
「そ、そ? 味見してくりる誰かいるんは、おらとしても助かるがねえ」
自分だけで試行錯誤しても進歩がない事はカヨも自覚しているのか、少々勢い任せの厚意にいつの間にか甘えていた。願ってもない展開に、幸太郎の顔面が緩みそうになる。それを誤魔化そうと、目の前にあるスパイスの数々を指差した。
「こらば、カレーぎゃ使う材料け?」
「んだ。組み合わせんとな、
「ん、んん……? こらぁ、
お互いの言ってる事が伝わりきらず、二人は首を傾げてしまう。仕事で標準語を使うよう心掛けているとはいえ、こうして肩の力が抜けるとついつい地方独自の言い回しと訛りが出てしまう。カヨの言ってる事がいまいち分からなかった幸太郎は、慌ててテーブルにある葉っぱが入った小瓶を手に取った。
「こん葉っぱば、どうばい?」
「ありゃ。そりは
「ほぅ、すっきなかまり……とね」
どうしよう。何言ってるのか全然分からん。という状況だが、分かったような口振りをする幸太郎。カヨと個人的にこうして話すのは初めての事で、昼食時の慣れた世間話とは訳が違う。彼女にとって、一番の理解者になりたい。その思いが余計な自慢をしてしまう。
「オイな、草笛が得意ばい!」
「うぇ? く、草笛だが?」
「熊本漁師のん酒盛り唄『牛深ハイヤ節』ば吹いちゃるたい」
ここまで言ってしまっては引き下がれず、幸太郎はローレルの葉を一枚瓶から抜くと、筒形に丸めて片方の口を指で潰し、それを咥えた。すると、ぷーう、ぷーうと葉が震えるような音を鳴らす。得意と言ってるだけあり、遊び心満載な音色でもきっちり民謡曲として成立していた。
「わあー! じょんずだねぇ!」
ヨイサーと掛け声を入れたくなる軽快な草笛に、カヨが手を合わせて笑顔で褒めた。調子に乗ろうとした幸太郎だが、次第に表情が萎れていく。そして、我慢出来ずに口からローレルの草笛を取った。
「に、にがばい……」
「あはは。そら、ローレルは香味ですたんめの材料さね。うんめ訳がねえよお」
幸太郎とカヨは静かな店内で、共にローレルをかじって苦笑いを浮かべる。こうして若き二人は高倉食堂の新顔となるオリジナルカレーを作る為、三十種類以上の香辛料に見守られながら、夜な夜な料理開発していく事になるのだ。
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