幸太郎とカヨ
生産工場地帯から徒歩九分。幸太郎の急ぎ足なら三分。熊本の丸島漁港に近い海沿いの町、
それに釣られた幸太郎は、空腹感と高揚感を込めて、定食屋の引き戸をガラッと開けた。店内は地元の漁師数人しか客がおらず、皿を洗って重ねる音だけが聞こえてくる。幸太郎は厨房がよく見える空席に座って、右手を伸ばした。
「カヨちゃあん、オイば鰤大根定食で!」
「はいと〜。長尾さんたら相変わらーず、
注文に呼ばれて出て来たのは、割烹着を来た幸太郎と同じ年頃の女性、食堂従業員の
「仕事忙しゅうてなぁ。やぁっと、
「
お互いの方言と笑顔を交換して、カヨはパタパタと厨房へ向かって行った。幸太郎は出されたお冷をグビリと飲むが、彼の中に潜む恋心が、彼女の姿を目で追いかけさせてしまう。カヨが腕を捲って調理を始めようとすると、皿洗いをしていた年配女性が止めに入った。
「あーあー、いいのよカヨちゃん。お客さんの食事なら、私が準備するから!」
「いんやあ、岸本さん洗いモンあるねし……?」
「今日のカヨちゃんは、配膳頑張ってくれたもの。それに若者同士、積もる話もあるでしょう〜?」
うふふと岸本はカヨを押し退けて調理を始めた。洗い物や掃除は他従業員で埋まり、お言葉に甘える事以外にやる事が無くなって立ち往生する彼女を、幸太郎は見逃さない。
「カヨちゃん! 暇なば、オイと話さんと?」
「えッ? んー……おらが相手で、良んだが?」
「よかばぁい!
幸太郎が話したそうにするので、カヨはそれに乗っかる事にした。捲った袖を戻しながら、幸太郎が待つ席の前にゆっくり座った。岸本は厨房に作り置きした鰤大根を加熱しながら、その初々しい様子を微笑みながら眺める。
「カヨちゃんば、熊本慣れたか?」
「はじめ、
「んー。確か『あずまし』ば、津軽ン言葉ぁ、居心地いいって意味でよかと?」
「そすそす。岸本さんに、接客の為に言葉教ばってもまだ安定せんで……いぐねぇよぉ」
「故郷ん言葉、そう簡単に抜けんと。オイんとこの工場の技術モンや偉いしと、朝鮮工場から来た
「そね? 色々な人がいるんだずなぁ」
幸太郎の熊本弁、カヨの津軽弁。土地の異なる強い訛りが交わされる。しかし、近しい年代の社会人という事もあるのか、ある程度会話は噛み合っている。
「仕事のほーば、順調がね?」
「化学肥料の生産工場ば、今や日本産業の番長たい。オイも働きぶり良かて、科学班への配属が決まったばい。工場新聞ぎゃ町民の期待の声が沢山載ってるけ、鼻がたけぇと!」
「ずんげぇなあ。そげに比べておらは、
カヨは大きなため息と共に、食堂のテーブルに上半身を預けて脱力した。独特の訛りで全ての意味が掴めない幸太郎だが、彼女が落ち込んでいる理由の察しは付いていた。
「上手くいかんと? 食堂ぎゃ出す
「んだ。店じまいん後になんぼ挑戦してんも、じょんずぅいがねくて」
カヨは両手で頬杖を付いて、困り顔で言った。彼女を悩ませるのは幸太郎が指摘した通り、店に出す新メニュー、『カレー』の事である。苦戦し続けている様子から見るに、スパイスから材料まで全て一からやっているという事だろう。
「おらに、んめぇカレー作るんの無理なんけね……?」
「カヨちゃん! そぎゃん事、なか——」
「はあい、お待たせ〜。鰤大根定食ね!」
幸太郎の視界に、喉が太鼓判を押す食事が置かれた。大きな鰤と大根、優しい法蓮草の胡麻和え、大盛りのほかほかご飯、湯気が立つ鯛のあら汁。食欲がお盆にしがみ付く。
「ゆったど食てな。おらも、すごとしねぇと」
仕事中にずっと話している訳にもいかないのか、カヨは申し訳無さそうな笑顔を向けた後に厨房へ戻っていった。
残された幸太郎はいただきますと手を合わせて、先ずは法蓮草から手を付けた。茹でた菜葉は柔らかく、そこに胡麻と出汁の風味が混ざり合って滑る様に喉を通る。次は鰤大根に箸をつけた。染み込む出汁は、漁港らしく豪快な甘辛さ。舌に一度付ければ、ご飯が欲しくてたまらない。
「くぅ〜。働いた後の飯ば、うまかぁ〜」
「だらあんじゃもんが」
がっつく幸太郎の暇な耳が、店内で新聞を読む地元漁師の言葉をつまんだ。噛み締める鰤大根に意味が付け足されて、幸太郎は眉を顰めた。
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