幸太郎とコンビナート

 1955年——昭和30年度、日本は高度経済成長の幕を開けた。不知火しらぬいがたまに顔を覗かせるという八代海を見渡せる、ここ熊本県の工業地帯も、地域発展における花形役者の象徴であった。


 工場内から溢れ出る硫安りゅうあんの山に、若き青年が一人、スコップを握りしめて仕事に打ち込んでいる。将来と需要がギュッと詰まった角砂糖らしき化学肥料を、掘っては別の山に積み上げていく。


「長尾ォ! さっさと休憩に入れェッ!」


 咥えタバコをした現場監督の怒号が、機械音を上回る。名前を呼ばれて滴る汗を首に巻く手拭いで拭く青年の名は、長尾幸太郎ながおこうたろう。薄汚れたベージュのハンチング帽と、使い込まれた作業着がよく似合う、働き盛りの22歳である。


「すんまッせぇ! 今ぁ行くけんッ!」


 慌ててスコップを片付ける幸太郎の背から、ぞろぞろと休憩時間を終えた従業員の男達が戻って来た。各々業務再開の準備をしていると、坊主頭の若者二人が幸太郎の姿を見るや、会話を開始した。


ほなこつ本当に長尾ば、よーがまだす働くなぁ。皆ん、よけ休憩に一人居残りじゃけえ、偉いのう」

「いんねいんね。あん男、仕事熱心じゃなか。とーしてんのに、訳あるたい」

「なして?」

「あいつぁ、高倉食堂のカヨちゃんの事、好ーっとる。じゃから、よけ休憩ドベひゃーって彼女ば、がじめ独り占めるばい」

「江越ッ、藤原ッ! 無駄話してないで、作業再開しろぉ!」


 幸太郎の話が現場監督の耳に入り、怒られた二人は急いで持ち場に入る。硫安りゅうあんの山に集まる若者達は、地元の労働組合なのか強い訛りが目立つがそれを束ねる上司は標準語。その横を幸太郎は、何食わぬ顔で通り過ぎた。下心満載な遅休憩の理由だが、その分一番成果を出しているようで、誰も文句を口にする者はいない。


 煤色の騒がしい生産工場を出た幸太郎の背には、灰色の煙を静かに放つ煙突が何本も聳え立っている。その景色に溶け込む彼の眼中には、すぐ近くに広がる群青色の海しか入っていなかった。


「よぅしッ、よけ休憩やぁあああ!」


 幸太郎は胸の高鳴りを原動力にして、ガニ股スキップで工場の敷地内を駆けていく。彼のお腹が、食べ物をせがんで鳴り止まない。


「カヨちゃん! いんま行くけえぇえッ!」


 利益を増産していくコンビナートの爆音をかき消してしまう程に、幸太郎の声は海に面する熊本の地域一帯に広がっていく。彼の行き先は、この生産工場の社員食堂となっている、海辺の定食屋——『高倉食堂』である。

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