第40話 涙花雨幻その2
「あれ?緊張してます?・・・・・・今更でしょう」
眦を緩めてにやけた表情でこちらを見てくる虎島の性格の悪い笑顔を、渾身の目力で必死に睨みつける。
幸徳井と梢が揃ってフロアから消えた後、密室に二人きりの状況に耐えられなくなったまりあは事務所を抜け出して非常階段へ逃げた。
そしてそれを追いかけて来た虎島に、踊り場で追い詰められている。
義兄の要に向けた啖呵は、自分に向けたものでもあった。
が、なんせ勢いが8割だったので、覚悟なんてまだ出来ていない。
目の前の男に惹かれ始めている、と自分の気持ちを受け止めた途端、どんな顔で彼に会えばいいのか分からなくなった。
色んなことをすっ飛ばして中途半端な身体の関係を持ってしまったことが心底悔やまれる。
今更どう取り繕ったところで、一番弱い部分をさらけ出した後なので、なしのつぶて同然だ。
「そういう虎島さんは、いっつも飄々としてますね!」
いま自分の気持ちがどれくらい混乱を極めているのか、見せてやりたいくらいだ。
「いや、これでも結構分かりやすく高揚してんだけどなぁ。俺もね、こういう感覚は久方ぶりなんで」
「全然そんな風には見えませんけど!?」
読めない食えない笑えない虎島の笑顔は、底なしの沼みたいでこれまでは何となく怖かった。
けれど、あの夜から少しずつそれ以外の表情を見せてくれることが増えて来て、今ではこうやって視線を逃がしたくなるくらい甘ったるい眼差しを向けられることもある。
飲み込まれてはいけない、と必死に踏ん張らなくては、彼の手に絡め取られてしまいそうだ。
これも彼の持つアルファの魅力の一つなのだろうか。
須磨の言葉と態度には微塵も熱を感じられなかったのに、目の前の虎島の視線と声は、どこまでもまりあの心をとらえて離さない。
「そう?なら、触って確かめてみ」
へらりと眉を下げた虎島が、へ?と間抜けな顔で立ち尽くすまりあの手を捕まえる。
そのまま軽く引っ張って自分の心臓の上へと導いた。
彼の身体に触れている事実に、一気に心臓が速くなる。
これでは、彼の鼓動が早いのか自分の鼓動が早いのかわからない。
「な?」
軽く首を傾げた男を途方にくれる気持ちで睨みつけた。
「わ、わかんないわよ!」
あんなことまでされた仲なのに、スーツ越しの接触でテンパる自分が情けない。
「・・・・・・あんたほんとに処女みたいだな」
小さく笑った虎島が、手首を捕まえていない方の手を伸ばして来た。
後ろ頭を引き寄せられて、彼の胸元に飛び込む羽目になる。
「これでどうだ?」
心臓の音を聞かせたいのは分かったけれど、これはない。
一気に湧き上がった羞恥心が身体中を駆け巡る。
自分とは異なるリズムを刻む彼の心音がどこか懐かしく思えてしまうのは、この腕に抱かれて夜を過ごしたことがあるからだろうか。
反応しているのは、心か、それともオメガなのか。
心が逸るのは、彼が欲しいからなのか、それともアルファに焦がれているせいなのか。
「だから、わかんないって!」
詰り声とと共に虎島を見上げれば。
「ここまでされて振りほどけないのはなんでだ?」
胸を突く質問と眼差しに、目を瞠った。
「・・・・・・あ、あなたがアルファだからよ」
「違う。あんたが俺に惚れてるからだ」
返って来た強気な返事に二の句を忘れる。
自分の本音は欠片も見せてくれないくせに、いつもこちらの心を奥底を見透かしたような態度を取る彼が、まりあの前で弱気だったことは一度もない。
最初からどれだけ嫌悪感を露わにしても、むしろ好都合だとでもいうように距離を詰めて来るのが虎島右京という男だった。
「・・・・・・だ、だって・・・・・・こんな・・・関係初めてだから・・・私・・・身体で恋をしたことなんてないのよ・・・」
好きだから触れて欲しいし、好きだから触れたくなる。
胸に抱いた感情を抱きしめて育てるような恋ばかりしてきた。
そして、それだけが正解だと信じて疑わなかった。
「触れて心地いいから好きになることも、惹かれることもあるよ」
慰めるような虎島の声は、彼がこれまで積み重ねて来た経験から来るものだ。
自分以外にもこの指で、唇で触れられて、蕩かされた女性が大勢いるのだ。
まりあがなにを言っても彼にとっては頑是ない子供が駄々をこねているようにしか聞こえないのだろう。
恋愛に正解はないことを、虎島は自分の身体と心で知っているのだ。
「そ・・・んなの・・・・・・」
自分がこれまで抱えて来た価値観をすべてぶち壊す発言に、必死に首を横に振る。
この人に飲み込まれたら、今日まで生きて来た乾まりあが崩れてしまう。
駄目だ、違う、頭ではそう思うのに。
彼に抱きしめられたことで覚えた熱を思い出した身体は独りでに疼き始める。
「・・・・・・っ・・・」
爪先から熾火に炙られるような感覚に、息を飲んだ。
頬に触れた虎島が、まりあの顔を覗き込む。
硬い指の腹が慎重に輪郭を辿った。
ぞわりと走った心地よさは、すぐに次の刺激を求め始める。
甘くて心地よい愉悦の海に誘ってくれるのが、目の前のアルファだと、本能が訴えてくる。
彼のスーツに染み付いた煙草と香水の香りに包み込まれると、じわりと脳が痺れた。
「・・・・・・虎島さ・・・」
紡いだ声の弱弱しさに、自分の置かれた状況を知る。
「
産毛をなぞるような問いかけに、心と、身体が、震えた。
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