第25話 変幻暗躍その2

貰った抑制剤を飲み忘れたことはなかった。


あの夜以来、一度も発情期ヒートは訪れていない。


オメガの発情期ヒートには周期があるらしく、その間隔は人によって様々で、いつまでも周期が定まらないトランスタイプのオメガも存在する、と資料には書いてあった。


そして、抑制剤を飲み続けていても、ストレスや疲労などが原因で突発的発情トランスヒートを起こすこともあり、アルファとの接触によって突発的発情トランスヒートが引き起こされることもあるらしい。


浅くなっていく呼吸と、たわんでいく思考。


自分で自分の身体を抱きしめて、必死に熱情を抑える。


「・・・・・・へ・・・いき・・・です・・・・・・少し、休んでもいいですか・・・?」


「うん・・・・・・ねぇ・・・顔赤いけど、熱あるんじゃないの?それとも貧血?」


女性特有の理由を口にした梢が、背中を支えて立ち上がらせてくれる。


歩くたび足の隙間が淫らに潤んで、衣擦れの音に耳を灼かれた。


少し休んでどうにかなるとは思えない。


予備の抑制剤はカバンの中だ。


薬を飲んで効いて来るまでどれくらい時間がかかるだろう。


不安で頭が埋め尽くされる。


「・・・・・・ちょ・・・っと・・・・・・熱っぽくて・・・・・・っは・・・」


じっとりとした嫌な汗が背中を伝う。


梢の前で我を忘れることだけは避けたいのに。


数メートル先の応接室が果てしなく遠く思えて絶望しかけたその時。


「お嬢、どうしました?・・・・・・まりあ?」


エレベーターのドアが開いて、会社に戻って来た兄の要が、廊下にいる二人に気づいて声を掛けて来た。


「要!いいところに!まりあ、具合が悪くなっちゃったの。休ませるから応接室に運んであげて」


今にもしゃがみこみそうなまりあを支える梢の声に、要が足早に近づいて来る。


ひょいと背中に腕が回されてあっさりと抱き上げられた。


酔いつぶれたまりあを部屋のベッドまで運んでくれたこともある腕なので、安心感は抜群のはずなのに、背中に触れた腕の刺激に思わず声を上げそうになる。


血のつながりのない義兄相手にまでこんな反応をする自分が心底嫌になった。


「了解です・・・なんだ・・・こないだからお前しょっちゅう熱出すな・・・・・・っなんだ・・・この匂い・・・」


まりあの様子を窺おうと顔を近づけた要が、一瞬身体を強張らせた。


「え?匂い・・・?」


怪訝な顔で梢が問い返す。


突発的発情トランスヒートによって放たれるオメガのフェロモンに、要が反応しているのだ。


「あ、いや・・・」


「お嬢様・・・・・・私のカバン・・・薬が・・・」


「うん、すぐ持ってくる!」


頷いて事務所に駆け出す梢と逆の方向に歩きながら、要が殊更ゆっくりと息を吐いた。


「なあ、お前今日香水以外になんか付けてる?」


「・・・付けて・・・ない・・・」


「・・・だよな。ソファーに下ろすぞ」


開けっ放しの応接室に入った要が、慎重な仕草で三人掛けのソファーにまりあの身体を横たえた。


皮張りの座面に背中を預けて、少しだけ呼吸が楽になる。


それでも腰の奥の疼きは収まらない。


「・・・ひとりに・・・して」


義兄の前で膝頭を擦り合わせることはしたくなくて必死に訴えれば。


「こんな状況で・・・・・・」


しかめ面の要が、真上から覗き込んできた。


そっと額を覆う前髪を避けて触れてくる冷たい指に、息を詰める。


あられもない声を上げてしまう前に離れて、と祈るも、要の手のひらはそのままほっそりとした輪郭を辿り始めた。


首筋を撫でて耳の後ろを擽る仕草は、介抱ではなくて愛撫だ。


こちらを見つめる眼差しに、濁った熱が宿っていることに気づいて、必死に身を捩る。


「・・・まりあ」


低く名前を呼ばれて、視線を絡め取った彼がおもむろに顔を近づけて来た。


突っぱねなくてはと思うのに、身体が動いてくれない。


彼がそういう意味でまりあに触れたことは一度もなかったし、そういう目で見つめられたことも一度もなかった。


ここで彼に触れられてしまったら、二人は本当に兄妹ではなくなってしまう。


「~~っ」


怖くてきつく目を閉じた次の瞬間。


「まりあ、カバンとお水!ねえ、薬ってどこに入ってるの!?ポーチ開けて良い!?」


廊下を駆けてくる梢の声が響いて、弾かれたように要がまりあの側を離れた。


「・・・お嬢・・・・・・妹を頼みます」


梢と入れ違いで応接室から出ていく要の耳は赤く染まっていた。


「え、なに、ちょっと要・・・・・・もうっ・・・素っ気ないなぁ・・・・・・ちょっと、まりあ震えてるじゃない・・・寒いの?大丈夫?」


枕元に駆け寄って来た梢が不安そうに肩を撫でてくる。


この震えは悪寒でも快感でもない、純粋な恐怖だ。


自分という存在の危うさを痛感させられたことへの、漠然とした恐怖心だった。


どうにか身体を起こして、ポーチの中から予備の抑制剤を取り出す。


身体の火照りと疼きは変わらないのに、心臓は凍えるように冷えていた。


「・・・・・・お嬢様・・・・・・虎島さん・・・呼んでください」

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