第19話 連理之枝underside
誰かの機嫌を取りたいだとか、好かれたいだとか、利益度外視で心が動くのはこれが初めて。
常に頭の中には損得の天秤があって、いつだって少しでも自分に有利な方を選んで来た。
すぐ先に石ころが転がっていると分かっていてそちらを選ぶわけがない。
障害物は少しでも少ない方がいいし、得るものは一つでも多い方がいい。
自分のなかにずっとある信念のように重たいそれが、揺らいだことなどなかった。
未来を考えるよりも先に、今日を生き抜くことに必死だったのだ。
幸徳井は決して甘い男ではない。
見た目に騙されて少しでも油断すれば、すぐに使い道ナシとして切り捨てられる。
幸徳井の末端から当主自ら引き抜かれた虎島は、自分の有用性を知らしめることを余儀なくされた。
幸徳井が気まぐれのお遊びで側近を選んだのだと思わせないために。
使える部下もコネも全て使って表仕事の片腕として認められるようになったのはここ数年のことで、正直それまでは、幸徳井と裏仕事の尻拭い係でしかなかった。
待ち合わせた女とホテルにしけこんだ途端呼び出されたことも、両手では足りない。
まるで見張られているかのように、真っ最中に限って連絡が入るのだ。
シャワー中ならまだしもベッドに入った後は遠慮してくださいよと何度言いそうになった事か。
そんな夜に限って、幸徳井は呼び出しに応じて飛んできた虎島を見てニヤニヤしながら、途中でごめんね、と笑うのだ。
ベッドの上で膨れる相手に万札を数枚握らせて、不完全燃焼なまま夜更けの仕事に戻ることを数回繰り返すうちに、暫く女はいいかと思い始めて次第に足が遠のき、定期的に遊び始めたのは自分の立場が落ち着いた後の事。
二十代の頃のような煮えたぎる性欲はもうないし、疲れる程抱き合うのも面倒だな思い始めたところで、彼女と出会った。
至極まっとうな精神の持ち主のまりあは、セフレの言葉を口にするのもためらわれるようだったが、虎島にとってアレはセフレですらなかった。
だって相手の名前も顔もろくに思い出せないのだから。
そんな三十路過ぎのいい年齢の男が、閑静な住宅地の中にあるガーデンレストランを予約して、日差しが眩しい時間帯に女性を伴ってランチに出かけるなんて、前代未聞である。
幸徳井の同行で会食ランチに出る以外は、カップ麺か宅配弁当か飽きた時には近くのラーメン屋で簡単に昼を済ませてしまうのに。
これでも一応秘書という肩書きを持っているので、幸徳井の影となるべくスーツに派手な小物を合わせることはなく、当然ネクタイもグレート紺の地味なものばかり。
そんな自分が、クローゼットのドアを開けてネクタイ選びに迷っている自分がおかしくて、生きていると本当に色んな変化が訪れるものだとくすぐったい気持ちになった。
まりあは未だに戸惑いと困惑を引きずっているようだが、虎島にとっては誰が何と言おうとこれは一生ものの片思いのつもりなのだ。
運命の番を手に入れるまで、休むわけにはいかない。
こうなってくると、未だに手も足も(一度は出したがあれは
これ見よがしに目の前で執務室のドアを閉められた時には、蹴り開けて邪魔してやろうかと思ったくらいだ。
どうして自分の周りにはこうも特殊な人間しかいないのか。
そもそも普通の男女がどうやって交際に発展するのかがさっぱりわからない。
合コンの経験なんてないし、宛がわれた女をその気にさせる口説き文句なら用意できても、まりあの心を揺さぶる何かなんて経験のない虎島には差し出せない。
手っ取り早く抱かせてくれ、と言えればいいが、言った瞬間すべてが終わることは必須。
だから、快気祝いを兼ねて胃袋を掴んで、まずは機嫌を取ろうと思ったのだが。
体調が戻ったまりあの放つ花の香りは、発熱時よりも穏やかになっていたものの、相変わらず思考をいい具合に蕩けさせてくる。
今日くらいは紳士的に職場まで送り届けて別れようと思っていたのに、有栖川警備の前で車を停めて、まりあがシートベルトを外そうとこちらを振り向いた瞬間、手を伸ばしていた。
シートベルトを握る指先を上から軽く押さえて、触れるだけのキスを落とせば、目の前でまりあが瞬きをした。
唇が触れあったのだと理解するまでの間は約三秒。
シートベルトを外すと同時に、ばっとのけ反った彼女の背中を抱き寄せて、もう一度今度はしっかりと唇を合わせる。
表面を優しく擦り合わせるだけのキスなのに、じれったいくらい甘い。
もっと本格的に唇を重ねたら、どれだけ気持ち良くなれるのか。
強くなった花の香りにくらくらする。
狭い口内を探りたくなって、どうにか堪えて唇を解けば。
「~~っ」
ぶわりと顔を真っ赤にしたまりあが目を伏せた。
覚悟していた平手が飛んでくることはなかった。
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