第14話 愛月撤灯その2

座っていた時にはさほど感じていなかったのに、一気に重たくなった自重を両足で支えることが出来ない。


机に手を突こうしたまりあの身体を支えたのは、梢ではなかった。


背中に回された腕と、知っている煙草の香りで彼が誰だか気づく。


それと同時に梢の声が聞こえた。


「虎島さん!」


ああやっぱり。


どうしてこの男はいつもこういうタイミングで現れるのだろう。


まりあが絶対に逃げられない時に限って彼はやってくる。


「勝手に入らせて貰いましたよ。どうしましたぁ?・・・・・・熱っぽいな」


後ろからまりあの顔を覗き込んだ虎島が、顔をしかめる。


昼間のオフィスは、大抵梢とまりあの留守番組だけになる。


ほとんどの社員は警備に出払っているからだ。


だからここで倒れても別の場所に移動させることはかなり難しい。


「・・・・・・たぶん・・・薬の・・・」


虎島にだけ聞こえる声で、抑制剤の副作用だと思うと告げれば。


「いや、体調不良だろ」


即座に突っぱねられた。


「梢お嬢さん、応接に運んでも?」


まりあの肩を抱いたまま虎島が端的に尋ねる。


「あ、はい!もちろんです!良かったぁ・・・私一人だとまりあのこと運べなかった・・・」


こっちです、と先導しようとする梢を制して、勝手知ったる表情で虎島がまりあを抱き上げて、廊下に向かって歩き出す。


幸徳井と嫌というほどここに通っている虎島である。


まりあはと言うと、言い返す気力も残っていなかった。


自力で帰ると言い切った数分前の自分を𠮟責しそうだ。


こんな状態で歩けるわけがない。


「愛しの颯さんじゃなくてすみませんねぇ」


悪戯な声で笑いかける虎島に、梢が弾かれたように顔を真っ赤にした。


「え、いえ!そんな!」


何とも初々しい反応である。


幸徳井がいたら唇の一つも奪われていたに違いない。


駄目だと諦めた恋が実ってからの梢は、日増しに愛らしくなっている。


元々感情表現が豊かな方だったが、幸徳井に関することはさらに顕著になっている。


彼を好きだという想いが全身から溢れているのは、見ていて何とも微笑ましくてむず痒い。


隙を見せて狼にかぶりつかれないようにしっかり見張っておかなくてはならないのに。


実のところまりあは、幸徳井颯こうとくいはやての理性をそれほど信頼していなかった。


どれだけ堪えようとしても、思い合う二人がべったりとくっついていたらそういう気分になるものだし、それが結婚間近ともなれば気持ちは盛り上がる一方だ。


花嫁の処女性と可愛い恋人の艶っぽい表情を天秤にかければ、まあ本能が勝るだろうな、と勝手に思っていた。


だから、出来る限り挙式当日までは幸徳井と梢を長時間二人きりにはしたくないのだ。


早く結婚したいな、と未来の旦那様に焦がれながら挙式までのカウントダウンをして欲しいところである。


「・・・幸徳井さん・・・は?」


「今日は一日裏仕事ですよ。俺は梢お嬢さんのご機嫌伺い・・・というか、今日の梢お嬢さんの写真を撮りに」


「っはぁ!?」


素っ頓狂な声を上げた梢に、虎島がごくごく冷静に答える。


「会えない日は、その日の梢お嬢さんの写真が見たいそうです。うちの主我儘ですよねぇ。ちなみに動画だと外で開けられないから写真がいいんだと」


あの男が考えそうなことである。


梢が自分にだけ聞かせる柔らかい声は一人占めしたいから音声は不可なのだろう。


「外で開けられないってなによそれ!」


「色々興奮すんじゃねぇですかね・・・・・・ほら、あの人今絶賛お預け中だから」


真顔でとんでもないことを口にした虎島に、梢が口をパクパクさせる。


本当の理由はまりあの想像の上を行くようだ。


梢は本当に大丈夫だろうか。


「おあ・・・っ・・・・・・っ」


「虎島さん・・・・・・お嬢様に・・・余計なこと・・・言わないで・・・」


「失礼・・・梢お嬢さん、申し訳ないですが、まりあちゃんに水持ってきてやってくれません?」


「あ、はい!まりあ、ついでに解熱剤も取って来るね」


虎島からの要望に頷いた梢が、まりあをお願いします、と虎島に声を掛けてから応接室を出ていく。


ドアが閉まってからしばらくして、虎島がまりあに指を伸ばした。


「熱はいつから?」


頬に零れた髪をそっと掬って耳の後ろに流す仕草はひとつの躊躇いもなく滑らかだ。


煙草の匂いの沁みついた指が肌に触れる感覚に、あの夜を思い出しそうになる。


「わ・・・からない」


この手は拒むのが正解だと頭のどこかでは分かっているのに、慈しむように触れる手のひらがあまりにも優しいから、頬を寄せたくなる。


こんなに心許ない気持ちになるのは随分と久しぶりだ。


「気疲れすることがここ最近多かったですしね・・・身体が悲鳴あげてんでしょ・・・・・・不安なら、つきっきりで看病しましょうか?」


耳たぶを撫でた親指で頬の高い場所をなぞられて、ゆっくりと視線が重なる。


「・・・・・・いい・・・・・・・・・・・・いらない」


甘えてはだめだと、危険信号を送り出す思考に従って首を横に振れば。


「その顔でそんなこと言われてもねぇ・・・・・・」


逃げるように視線を反らした虎島が、天井を睨みつけた。

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