第2話 一期一会その2
誰かのおさがりだと思われる襟元の伸びたヨレヨレの大きなTシャツとサイズの合っていないぶかぶかのショートパンツから伸びる手足は驚くくらい細くて、一目で彼女がまともな食事を摂らずに生きて来たことが分かった。
軋んだ髪に染み付いた安っぽい薔薇とベリーと煙草の香り。
中学校の制服だけを後生大事に抱えて有栖川家にやって来た梢は、精一杯背筋を伸ばして自己紹介をしたまりあの顔をまじまじと見つめて、ぽつりとつぶやいた。
『まりあ様・・・・・・ほんとにいるんだ』
まるで神々しいものを見つめるように目を細めた彼女の瞳には、羨望しか映っていなかった。
これから彼女が手に入れる沢山のものは、本来ならまりあが手にしていたものだ。
運命の岐路が僅かでもずれていたならば。
風俗嬢たちの間でもみくちゃにされて育てられたのか思いきや、恐ろしいほどの無関心に晒されたまま勝手に育って来たらしい梢は、汚れても歪んでもいなかった。
ただただ、向けられる言葉や愛情に、どこまでも飢えていた。
まりあが教えたことをスポンジのように吸収して、差し出された情報のすべてに興味を持って取り込んでいった。
どうにかして彼女の粗を探してやろうと躍起になるまりあを翻弄するかのように、梢はいつでもまりあの後をついて回って、まりあの全てに好意を寄せて来た。
それはもう、全力の好意を。
彼女の持つ純粋さや素直さは、生まれや育ちでは少しも損なわれることなくずっと梢の根底に存在していて、水を得て開花した彼女の少女らしい魅力に、有栖川家の家族は勿論のこと、まりあもいつの間にか夢中になっていた。
彼女に向けられる眼差しは愛情と親愛にいつだって満ちていて、誰も梢を傷つけない。
不遇な幼少期を知る有栖川の家族や、彼の部下たちはことさら梢を猫可愛がりしたし、過保護に育てた。
毒気を抜かれたまりあが梢に教えた事は、絶対に自分を愛してくれる人はいるから、俯く必要はどこにも無いということ。
ぺしゃんこの自尊心が約10年の間に一気に膨らんで満たされて溢れそうになった矢先、彼女は運命の出会いをして、初対面の男にプロポーズし、見事玉砕。
傷心の梢を全力で慰めながら、自分たちのこれまでの接し方のあれこれを大いに反省し始めた有栖川家と乾家に、梢を振った
紆余曲折の追いかけっこを経て、無事により大きくて強固な鳥かごへ移送されることが決定したシンデレラは、現在婚礼準備の真っ最中だ。
彼女がシンデレラの階段をのし上がっていく様を一番近くで見守っていた一人としては、より一層感慨深いものがある。
有栖川からも、乾からも、とにかくいまは梢のフォローを第一優先で動くようにと厳命を受けていた、のだが。
「乾さん、荷物の手配をありがとう。新居に届いたってさっき部下から連絡が入ったよ。俺と一緒だと落ち着いて買い物出来ないってごねられた時にはさすがに傷ついたけど、二人きりになってから思う存分見せて貰う事にするよ」
それもまた楽しみだ、と優雅に微笑む来訪者の後ろからひょいと顔を覗かせた秘書の
「最近会社のほうで会えませんねぇ、まりあちゃん」
どれだけ頼んでも彼がまりあを乾と呼ぶことは無いので、もう半ば諦めて彼のほうは無視する。
ワードローブを一式揃えておこうと梢に微笑んだ颯は、三秒で買い物はまりあと行くから、と言われて頬を引きつらせて、隣で見ていた虎島はゲラゲラお腹を抱えて大笑いしていた。
結果、まりあは兄の要を運転手に捕まえて、梢と二人で駅前の百貨店と海岸通りのセレクトショップを梯子して大量の荷物を新居に配達してもらう事になった。
「お預かりしているカードはお返ししたほうがよろしいでしょうか」
「いや、当分あれこれ入り用になるだろうから預けておくよ。梢のことをよろしくね、乾さん」
「幸徳井さんからではなく、社長と、父親からの依頼ですので」
今現在、まりあの上司は有栖川警備の社長で、まりあが側仕えするべき相手は颯ではなくて、梢自身である。
そして、まりあは一生主を変えるつもりはなかった。
まりあの言い方に片眉を上げて見せた颯が、何も言わずに廊下の奥にある梢の部屋に足を向ける。
「先ほど帰宅したばかりですので、リビングでお待ちになっては?」
「今日はちょっと梢に相談とお願いがあるから、二人きりにして貰える?」
有無を言わさぬ笑顔でまりあを振り切った颯が、梢の部屋のドアをノックする。
多忙な彼の突然の来訪は今に始まったことではないが、それにしたって現れすぎである。
閉じた扉の奥から、驚いた梢の声が聞こえて来たがそれもすぐに聞こえなくなった。
気まずい雰囲気で虎島のほうへ視線を向けると、窺うような眼差しとぶつかった。
「今日は、体調いいみたいですね」
「・・・・・・・・・え?」
誰にも悟られていないと思っていたはずの変化を見抜かれた事に驚いて、この時初めて虎島の顔を真正面から見つめ返した。
人には言えないような体調変化だったので、絶対にバレたくないと思っていたのに。
冷や汗をかいて唇を引き結んだまりあを見据えたまま、虎島がにたりと口角を持ち上げた。
「立ち聞きもアレなんで、移動しません?」
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