第3話 千載一遇その1
「乾、いぬいー、ねぇ・・・・・・まりあってば」
外では苦手な名前ではなく苗字で呼んで欲しいとお願いしているせいで、律儀に苗字を繰り返したあとで、声のトーンを落として名前を呼ばれた。
「あ、はい、すみません!」
「どうしたの?なんか今日ぼーっとしてるけど・・・・・・もしかして、体調良くない?まりあはあんまり顔に出ないから・・・・・・」
隣から覗き込んできた梢が、眉根を寄せて額に手を伸ばしてくる。
計られても熱が無いことは分かっているので心配を掛けることはないのだが、慌てて目を閉じてしまったのは、別の手のひらを思い出したせいだ。
「んー・・・平熱・・・・・・なんかあった?」
「いえ・・・・・・ここ最近お買い物してばかりなので、ちょっと自分の金銭感覚がおかしくなってやしないかと心配でして」
これはあながち嘘ではない。
思えば、有栖川家の娘になったばかりの梢を連れて家政婦と三人でワードローブを揃えに来たときもこんな感覚を味わった。
有栖川から事前に連絡が入っていたらしく、外商向けのフロアに通されるや否や、店員が笑顔で近づいてきて、ずらりと並べられたシーズン毎の洋服を片っ端から梢にあてがって、まるで選別でもするように次々と洋服が別室へ梱包の為に運ばれていくのを唖然と見守ったものだ。
やっと終わったと思ったら、今度はまりあと家政婦用の洋服が運ばれてきて、困りますと全力でお断りを申し出れば、有栖川から、必要なものを十分にと言付かっていると言われて、この先梢と一緒に出掛ける時のための洋服だろうと踏んで、顔を引きつらせながらファッションショーに付き合ったのは懐かしい思い出だ。
気風の良い有栖川の買い物は実に豪快で、良さそうなもんを適当にと伝えて後はすべて店員任せ。
稼いだ分を使って経済を回すのは社会人の役割だとその態度で示していた。
そんな父親を見て育った梢は、お勧めをお断りすることが大の苦手である。
「だって結構です、のタイミングが分かんないのよ!貰えるものは貰っておかないとすっからかんになる生活を送ってたから・・・ほんっと、どれだけ取り繕っても貧乏癖は抜けない」
「・・・・・・お夕飯のおかず、必死に残して部屋に持って帰ろうとしてた頃が懐かしいですね」
「だって翌朝もご飯を貰えるとは思わなかったから」
起きたら冷蔵庫を覗いて食べ物を真っ先に確認する生活を長らく送っていた反動か、何でも受け取って溜め込む癖のある梢の本質は、出会った頃から変わっていない。
未だにショッパーはすべて捨てずに保存してあるし、試供品もポケットティッシュも漏れなくすべて受け取ってしまう。
たぶんそれは、幸徳井家に嫁いでからも変わらないだろう。
「朝ご飯を前にしてあんなに目を丸くする人は初めて見ましたよ」
あの頃は、梢が哀れであればあるほど自分の心が満たされていた。
この子は自分なんかよりももっとずっと底辺の場所で生きて来た可哀想な女の子なんだから、羨んではいけない、と何度も自分に言い聞かせて来た。
そして、恐らくそれが態度や言葉の端々に出ていたと思う。
それでも、梢はまりあの側にいることをやめようとしなかった。
ほかに行き場所がないことを、ほかに居場所がないことを、誰よりも彼女は知っていたのだ。
「私に言えることが出来たら、相談してね。たぶん、聞くくらいしか出来ないだろうけど」
「なにもありませんよ。それより、ほんとに処女のままバージンロード歩くつもりなんですね」
「ちょ、往来で何言いだすのよ!」
「昨日のお部屋でのイチャイチャっぷりで、良く我慢してますね、幸徳井さん」
「待って、イチャイチャは・・・してない・・・いや、したけど・・・・・・ちゃんとは、してない」
「・・・・・・あの・・・お嬢様。つかぬことをお伺いしますが、下着脱いだりしてませんよね?」
梢が与えた少女漫画と少女小説と、元同居人たちの乙女チックな憧れをふんだんに受け継いだ梢は、清らかな体のまま幸徳井家に嫁ぐことを望んでおり、彼のほうもそれを了承している、らしい。
が、耳を塞ぎたくなるような甘ったるい睦言のやり取りを思えば、実はもう一線超えてしまっているのではないかと疑いたくなってくる。
ここ最近、婚約者殿は有栖川家に来訪すると、お茶の一杯も飲まないうちに梢の部屋にこもりきりになるので猶更心配だ。
「わ、私をなんだと思ってんのよ!?脱ぐわけないでしょ!・・・・・・服の上から・・・・・・撫でられるだけ」
それは具体的にどんな風に?と尋ねそうになって慌てて質問を飲み込んだ。
こんなところで砂を吐きたくはない。
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