ときめきはくちづけの後で ~遅咲きオメガと執愛アルファの愛活~

宇月朋花

第1話 一期一会その1

思えば彼は、初対面の時から気に食わない相手だった。


幸徳井颯こうとくいはやての表仕事の側近として秘書の顔をしてやって来た男が、梢の隣に立っている自分を一瞥して、へらりとした本音の見えない笑みを浮かべて気安く名前を呼んできた時点で、苦手な部類に押し込めてしまった。





いぬいまりあの名付け親は、捨てられていた教会のシスターだ。


いまにも雪が降り出しそうな曇天空の下で、悲鳴にも似た泣き声を上げていた生後間もない赤ん坊に、神の救いの御手が差し伸べられますようにと祈りを込めて、まりあ、というありがたい名前を付けたシスターは、その後4年間まりあを自身で養育し、高齢を理由に教会を去る際に養護施設にまりあを託した。


二段ベッドが部屋いっぱいに並べられた新しい子供部屋には違和感しかなく、上手く施設での環境に馴染めなかったまりあは、名前に似合わず喜怒哀楽があまり表に出ない子供に育ち、笑顔で愛嬌を振りまいて新しい家族を得て施設を出ていく何人もの子供たちを見送りながら数年を過ごした。


10歳になる頃、老朽化が進んだ施設の建て替えと分園化が決まり、年少の子供たちから優遇して新しい施設に移動して行った結果最後まで残ってしまったまりあを迎えに来たのは、当時有栖川の部下で刑事をしていた乾だった。


子供のいない乾夫婦には、3年前に引き取られた年上の兄、かなめがおり、その日から乾まりあは二人兄妹の妹になった。


古びた教会の奥の懐かしいシスターの匂いがしみついたベッドから、いつも物音と誰かの寝言が聞こえる二段ベッドを経て与えられた自分一人の為だけのベッド。


狭い団地の和室をカーテンで間仕切りして、要とまりあの子供部屋とした乾の父親としての精一杯の気遣いは嬉しかったし、真っ先にまりあの好物を尋ねてくれた母親の優しさは胸にしみた。


だから、それ以上を望むつもりなんてなかったのだ。


相変わらずまりあの名前は好きにはなれなかったけれど、中学に上がると友達も出来て少しずつ表情も豊かになって来た。


ようやく手に入れた極々普通の両親と兄。


刑事の父親は忙しくほとんど家にはおらず、パート勤務の母親はたびたびその事を愚痴っぽく口にしては、子供の学資資金の為に節約だといつも難しい顔で家計簿を睨んでいる。


決して裕福ではないけれど、どこにでもある中流家庭。


シンデレラストーリーは、御伽噺と漫画の世界にしか存在しない。


それが当然だと思っていた。


そんなある日、自宅に飲みに来た父親の上司である有栖川と、乾の会話を聞いてしまったのだ。




『お前のところもすっかり4人家族だなぁ・・・・・・圭子さんが昔みたいに元気になって本当に良かったよ』


壁に貼られたマラソン大会の賞状と、行事日程のプリントを眺めてビールグラスを傾ける有栖川の言葉に乾が目を伏せて小さく頷いた。


『奥さんには、本当に申し訳ないことをしました。お嬢さん、欲しかったんでしょう?』


『あの状態の圭子さんを見て、そんなこと言える女じゃねぇよ。まりあちゃんもこの家に馴染んでるようだし、うちに来るより良かったんじゃねぇか。男ばっかだからな』


有栖川は乾とは異なり結構な資産家の跡継ぎらしく、働かなくても食べていけるはずなのに、刑事をしているのが不思議でしょうがない、といつも母親が零していた。


あの日、養護施設にやって来るのは、乾ではなくて、有栖川だったかもしれないのだ。


もしもまりあが有栖川家に引き取られていたら、今とは全く異なる人生を送っていたことだろう。


市内の公立中学校の地味なセーラー服なんて着ていなかったに違いない。


乾夫妻が長く不妊治療を続けていたことは、母親と祖母の会話から何となく察しがついていた。


何度か母、圭子が流産していたことも。


まりあが乾家に引き取られた理由は、恐らく圭子の心の傷を癒すためだったのだろう。


『有栖川家の一人娘として生きるほうが、ずっと選択肢は広がるはずなんですが・・・・・・俺と妻の我儘でうちの子になって貰ったので、出来る限りのことはしてやりたいと思ってます。有栖川さんほど、手を差し伸べてやる事は出来ませんが』


『俺も援助は惜しまんよ。要とまりあちゃんは、お前と圭子さんの子だ』


何かあったらいつでも相談しろと気安く乾の肩を叩く有栖川の表情は至極穏やかで、まりあを自分の養女に出来なかったことに微塵の後悔も抱いていないようだった。


彼の穏やかな眼差しが、ただただ悔しかった。


何かが少しでも違ったら、今頃有栖川の大きな屋敷で、何不自由ない生活を送っていたかもしれない。


憧れていたシンデレラストーリーが、本当は目の前までやって来ていた事を知ってしまった今となっては、すべてのことが虚しく感じられて、駅前ですれ違う有名女子高の制服姿の女の子たちを眺めるたび、溜息が零れた。


そして、とうとう本物のシンデレラに出会った瞬間、自分の中に生まれたどす黒い沁みのような嫉妬心に心を焼かれた。


新人刑事時代に乾が冒した失態を有栖川に救われてから、ずっと恩義を感じていた乾は、有栖川が事件で関わった風俗嬢のたまり場のアパートで寝起きしている少女を引き取る事にしたと報告を受けてすぐに、娘を有栖川家に向かわせることに決めた。


当時、有栖川の妻の容体は思わしくなく、家政婦は妻の看病と家事に追われており、ほとんど野放しのような状態で育ってきた少女を正しく養育する余裕はどこにもなかったのだ。


『お前が育った養護施設にも入れなかった可哀想な女の子がいる。これから、普通の女の子として生きていけるように、まりあの好きなものや興味のあることを沢山教えてやって欲しい。有栖川さんは、妹のように扱ってくれて構わないと仰っていたが、その子はいずれ、有栖川を名乗って生きていくことになる女の子だ。父さんは、刑事を辞めてこれから有栖川さんが社長を務める会社で働く事になる。女の子は社長令嬢。お前は、部下の娘だ。どうすればいいかわかるね?』


きちんと線引きをして正しく付き合いなさい、と言外に命じた乾の言葉が無かったとしても、まりあは彼女を”お嬢様”と呼んだはずだ。


自分より哀れな身の上で生きて来た可哀想な灰かぶりのことを。





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