第31話 Persian blue-1

「来てくれてありがとねぇ」


まあ飲んで飲んで、と早速グラスに注がれたのは久保田の大吟醸。


智咲は昔から気前の良い人だった。


他人に借りを作りたくない(とくに女性には)主義の雪村だが、不思議と彼女の奢りは素直に受け入れることができるのだ。


たぶん、その他大勢の女性たちのような期待や下心が見えないからだろう。


遠慮なく碧寿の深い味わいを堪能しながら、眉を下げたままの大学時代の先輩を一瞥する。


軽やかな喉越しが売りの久保田にもかかわらず、彼女の表情は明るくない。


行き詰った仕事を一旦放りだすことにして、今日どうです?とメッセージを送ったら、20秒後に、行こう!の返事が来たときにはよほど飲みたいのかと思ったが。


この顔から察するに、どうやら一人で悶々としていたようだ。


大学時代の仲間内では有名な酒豪だった智咲は、けれど悪酔いすることはまずなかった。


純粋に酒に強い、ということもあるのだろうが、いつも行儀よく飲んで、その場の空気を壊さないように上手く立ち振る舞う人だった。


だから、彼女が凹んだり悩んだりすることを見たことが無い。


これは飲み過ぎないように見ておかないとまずいな、と思いつつ、雰囲気の良い小料理屋を見回す。


「いい店知ってますね、師岡さん」


「んふふ。でしょ、ここね、永子さ・・・あ、こないだ会った理汰のお母さんが教えてくれたお店なのよ」


役所から徒歩10分弱のところにある小料理屋は、しっとりとした落ち着いた雰囲気の店で、女将が一人で切り盛りしているせいか、客層は高めでほとんどの客が公務員のようだった。


「カウンター席がメインだから、後輩たちは連れてけないし、大人がゆっくり飲む時に使うお店」


「たしかに、座敷もなしですもんね」


調理場を囲むようにコの字型に作られたカウンター席は、ゆったりとした作りになっており、2席ごとに簾で区切られているので人目を気にせず酒と食事を楽しむことが出来る。


「たまにね、同僚とか、上司と飲みにくるのよ」


「悩みがある時に?」


グラスを傾けながら横目に伺えば。


「うわ、ごめん・・・顔に出てた?ってか、気づかない振りしろイケメンの癖に」


すぐに顔をしかめた智咲が、ぐいっとグラスを煽って空にした。


手酌でお代わりを注ぐ彼女の頬はまだ赤くない。


「やけ酒にするにはもったいなさすぎるでしょ、コレ。飲み過ぎないでくださいよ。俺介抱しませんからね」


「はーほんっと雪の如く冷たい対応だわぁ・・・さすが氷雪コンビ」


いつからか勝手に呼ばれるようになったあだ名を彼女が口にして、刺身の盛り合わせに箸を付けた。


「・・・・・・羽柴から訊いたんですか?」


「・・・・・・・・・・・・」


綺麗な鯛を口に入れた彼女がぎゅうっと眉根を寄せた。


これでは羽柴と何かあったと言っているようなものである。


・・・・・・・・・この人本当に交渉ごとに向かないタイプだな。


こうも分かりやすく表情に出されては、取引先との商談を任すことは出来ない。


智咲はまさに公務員向きの人種である。


「・・・・・・もしかして、羽柴から口説かれました?」


「⁉~~・・・なんでそんなことまでわかんの・・・雪村くんって読心術まで持ってるわけ?」


重たい溜息を吐いた彼女が、雪村のグラスに冷酒を注いだ。


本人以外には完全に筒抜けの片思いだと思っていたが、なんだ、そうか、ったのか。


かなり長い付き合いのようだったので、このままズルズル行くかと思ったが、羽柴のほうが堪え切れなくなったらしい。


恐らくそのきっかけを作ったのは自分なんだろうな、と思いながら冷酒を煽る。


あれから何度か施設内で羽柴とすれ違ったが、探るような視線を何度も向けられた。


”智咲に気があるんじゃないだろうな?”


言外に告げられる問いかけは、完全に的外れ。


たしかに、昔からの付き合いで未だに気兼ねなく話せる数少ない女性のうちの一人ではあるが、それ以上の感情を抱いたことは一度もない。


彼女もそれを分かっているから、こうしてさし飲みしよう、と声を掛けてくれるのだ。


二人の間にあるのは、言葉通り先輩後輩の気安さのみ。


けれど、それでも疑わずにはいられないのが恋なのだろう。


額を押さえて呻いた智咲の表情は苦いまま。


本当にこれっぽちも羽柴の気持ちには気づいていなかったようだ。


そういえば、大学時代も恋愛事とは無縁の生活を送っていたような気がする。


家庭教師のバイトと、レポート提出に真面目に取り組んで、品行方正な大学生の鑑のような女子大生だった気がする。


「読心術は持ってませんけど、羽柴のこと見てれば分かりますよね。あんなに必死にアピールしてるのに、諸岡さんさっぱりだったから、わざと気づかない振りしてるのかと思ってましたよ」


まあそれは無いなと思いながら軽口を叩けば。


「・・・私がそんな器用な女に見える?」


ジト目で睨みつけられて、ああこれはそうとう参っているなと理解した。


「・・・・・・いえ、見えません」


「・・・でしょう」






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