第30話 midnight blue-2

受付を終えて、いつも通り入館証をぶら下げて明るい廊下を歩いていると、誰かに気づいた理汰が片手を上げた。


「槙、お疲れ」


カフェテリアから紙製のコーヒーカップを手に出てきた槙と呼ばれた男が、理汰に気づいて立ち止まる。


「おー・・・お疲れ。俺夜勤明けで今から帰るとこ・・・・・・こんにちは」


疲労感の残る目元を和ませて軽く会釈してきたのは、理汰と同世代と思われる男性社員だった。


けれど、彼は白衣を着ていないので、研究所ラボの人間ではないようだ。


「こんにちは・・・えっと」


名乗ったほうが良いのだろうか、それともここは会釈してスルーが正解なのだろうか。


迷っている智咲に向かって、理汰が目の前の槙を手のひらで示した。


「智咲さん、こいつは俺の地元の幼なじみで、現同僚。システムエンジニアの槙。俺のネクタイ褒めてくれた男」


ついさっきの会話を思い出して一気に頬が赤くなった。


理汰が、槙に自分のことをどんなふうに話しているのか気になってしょうがない。


「あ・・・・・・ああ・・・初めまして、師岡智咲です」


「槙、彼女は智咲さん、俺にこのネクタイくれた人」


とんと自慢げに首元を指さした理汰と智咲を交互に見やって、槙が一つ頷いた。


「・・・へー・・・彼女が・・・初めまして。槙宗吾まきしゅうごです」


含みのある言い方に、ドキンと心臓が嫌な音を立てた。


槙の同級生ということは槙も29歳だ。


自分の同級生が、明らかにいくつも年上とわかる女性の隣で微笑んでいることに対して、何か思う事はないのだろうか。


いや、無いわけがない。


そうなることが最初から分かっていたから、違うと決めていたのに。


明らかに釣り合わない二人を見て、人々が思い浮かべる感想なんて知れている。


もっと似合う人を、もっと似合うものを、届けてあげられるはずなのに。


「不躾に見るなよ」


槙の探るような視線に戸惑っていると、理汰が智咲を庇うように前に出てくれた。


背格好は理汰とよく似ているのに、慣れない槙の視線は自分のドロドロとした気持ちを見透かされてしまいそうで怖い。


見慣れた背中に安堵を覚えたのは初めてかもしれない。


理汰の言葉に、槙がからかうように笑って背中越しにこちらを覗き込んできた。


驚くくらい優しい表情で見つめられる。


「お前がずっと隠してるからだろ。師岡さん、こいつねほんっとにデレデレの顔になってそのネクタイ自慢してましたよ。そりゃあもう気持ち悪いくらいに」


「気持ち悪いは余計だよ」


ばつが悪そうに言い返した理汰が、大急ぎで視線をつま先に逃がした。


その横顔が隠し切れないほどに赤い。


ふつふつと湧き上がってくるのは、浅はかな期待。


期待なんて抱いたら駄目なのに。


押し込めても押し込めても、もしかして、が消えてくれない。


「羽柴は、一途な男ですよ。それだけは理解してやってください」


「・・・・・・あ・・・は、はい」


それ以外返す返事が見つからなかった。


「中坊の頃のしょーもないネタならいくつもあるんで、良かったらそのうち一緒に飲みに行きましょうよ」


「え!?っあ・・・は、はい」


予想外に好意的な反応が返って来て慌ててしまう。


もっと値踏みされたりするかと思ったのに。


理汰と槙と三人の飲み会なんて、いやいやいや、さすがにそれはハードルが高すぎる。


思い切り困惑する智咲の前で、理汰が後ろ手に智咲の手を握って来た。


いきなりすぎて手を振りほどくのを忘れてしまう。


「お前と飲む前に、智咲さんには俺と二人きりに慣れて貰わないと。じゃあな、お疲れ」


軽く智咲の手を引いて歩き出した理汰に連れられて、こちらを見送る槙に頭を下げてその場を離れる。


気が動転しすぎて、彼と社内で手を繋いでいるという事実がすっぽり頭から抜け落ちたまま、小さな会議室へと通された。


智咲に椅子を引いて座るように勧めた後も、目の前からいなくならない理汰に首を傾げた途端、今度は両手を握られた。


「へ!?」


さすがにこれは本当にまずいのでは。


真顔で見上げた理汰の顔が、ほんの少しだけ歪む。


「もっと俺の事問い詰めてくるかと思ったのに。それも怖くなっちゃった?」


「・・・・・・き、気まぐれじゃなくて・・・?」


「もう一回槙をここに連れて来て、俺がどれくらい前からこのネクタイお気に入りにしてるか、説明して貰おうか?」


「いい!いらないから!あの、理汰、皆さん来られるんじゃ・・・・・・」


「会議の時間変更になったって嘘だよ。ごめん」


申し訳なさそうに目を伏せる理汰を見つめ返して、智咲はあんぐり口を開けた。


「っは!?」


「会議は予定通りいつもの会議室でこの後始まるから。その前に、これだけは言っときたくて」


「あの・・・理汰」


聞いてしまったら、会議どころじゃなくなる。


本能がそう叫んでいるのに。


「いい加減な気持ちじゃない。あの日、俺はデートのつもりで出かけたし、智咲さんにもそう思ってほしかった。俺を意識してくれるきっかけになればって思ったけど・・・・・・欠片も揺れてくれなかったから、逆に覚悟が出来た。俺も、もう様子見とか遠回しなアプローチはしないので、本気で口説かせてください」


理汰から口説かれる現実は、何百通りある未来のどこにも描かれていなかった。


何なら、数年後理汰の結婚式で永子と二人で泣きじゃくって、初孫の誕生を大喜びする永子の隣でおば馬鹿を気取る予定にしていたのに。


干からびて動かない喉を必死に震わせて、やっぱりこれは夢では?と思いながら口を開く。


「・・・・・・なに言ってんの?」


「智咲さんが俺に対して持ってる感情って、多分母さんの息子だとか、もっと言えば年下の弟みたいなものなんだろうけど・・・俺が智咲さんに抱いてる感情は、こっちに戻ってから・・・ずっと恋だったよ。親近感とかじゃなくて」


「・・・・・・理汰」


智咲の呆然とした呼びかけに、理汰は真顔で答えた。


「頼むから、俺の気持ちは否定しないで」


真っ先にそれは刷り込み的なアレじゃなくて!?と言いかけた智咲を制するように、彼が静かに告げる。


「俺を好きになって欲しいんだ」


その声は、羽毛みたいに智咲の心を優しく包み込んだ。

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