第29話 midnight blue-1


「おおおおお迎えどうもありがとう」


エントランス前で待ち構えていた理汰が声を出すより早く呼びかけた。


どもったのはもうどうしようもない。


会議参加予定の教授が急遽出張で打ち合わせには自分が出ることになった、と会社のメールアドレスに丁寧な文章が届いたのは昨日の事。


それに伴って会議の開始時間が少し早くなったが問題ないか、という問い合わせに、もちろん問題ありません、当日はよろしくお願いします。と同じように丁寧に返した。


あの日以来、ピンクのイルカを直視することができない。


だって理汰の気持ちがさっぱり分からないのだ。


彼がどんな気まぐれを起こしてこれを自分に渡したのか理解できない。


だってペアって、お揃いって、なんだそれ。


からかわれているにしては完全にやりすぎだ。


そして、万が一これが本気なら、もっと大変なことになる。


だって理汰に返せる答えを、いまの智咲は何一つ持ち合わせていないのだから。


あれからずっと眠れない夜が続いている。


目を閉じれば理汰の顔を思い出して、水族館デートもどきのことを思い出して、ピンクのイルカを思い出す。


確かめなくてはいけない、でも、確かめたら、確実に二人の関係は壊れてしまう。


「そんな挙動不審にならないでよ。俺がなにかしたのかと思われるから」


ようこそ、西園寺メディカルセンターへ、と白衣をひらめかせていつものように先導していく彼が、困ったように笑う。


「・・・・・・あれ?智咲さん」


よく知るその笑顔にすら心をざわざわさせられるのだからたまったもんじゃない。


智咲だってもうほとんど分かっているのだ。


理汰が冗談でこういうことをするタイプではないと。


「な、なに?」


無意識のうちに腕を掲げて臨戦態勢に入ってしまった。


「今日も同じネクタイだね、って言ってくれないの?」


それは彼を見た時から気づいていた。


「・・・・・・言えるわけないでしょ!」


私は馬鹿だ。


ほんとはちゃんとずっとシグナルは送られていたのだ。


「なんだ、残念。それを期待してたのに」


智咲が西園寺メディカルセンターを訪ねるたびに、理汰が締めていたのはいつも同じネクタイ。


智咲が彼にプレゼントしたものだ。


この間まで、智咲に気を遣った理汰が敢えてそのネクタイを結んでくれているのだろうと思っていた。


でも、カバンの中で揺れているピンクのイルカが本当に彼の気持ちなら、理汰が毎回同じネクタイで現れる理由はただ一つだけ。


「俺がね、いつも好きでこれを選んでる。同僚にさ、趣味が良いねって褒められたよ。俺もほんとにそう思う。智咲さんは、俺に何が似合うかちゃんとわかってるよね」


”理汰になにが似合うのか”


彼が無意識に零した言葉が、途端ぐさりと胸に刺さった。


そうだ、いつだって智咲は、理汰に似合うものを探して来た。


きっとまだ巡り合えていないだけで、理汰の運命の相手はどこかに必ずいるのだから、その相手をどうにかして見つけてあげたいと思ってきた。


このネクタイを贈った時だってそうだ。


何軒か紳士服店を回って、一番彼のイメージにしっくり合う一本と巡り合えた時には誇らしくなったものだ。


ミッドナイトブルーとピーコックブルーの落ち着いた色合いに一目で運命を感じた。


あの頃の理汰には、ちょっと大人びた印象だったそれは、今やすっかり彼に馴染んでいる。


まるで今の理汰を見て選んだかのように。


「・・・・・・そうよ。私は、あんたに似合うものをちゃんと見分けられるの」


だから、最初から除外したのだ。


私が選ぶ理汰に似合う何かの中に、師岡智咲の存在は入らない。


最初から最後まで、永子と同じ場所から理汰のことを見守るべきだと、そう信じて疑わなかった。


「俺も、智咲さんに似合うなにかは、ちゃんと見つけられるよ。いい大人だし」


「・・・・・・・・・」


こちらを伺う彼の表情が、ほんの少しだけ甘ったるくなって、反射的に歩く速度を緩めてしまった。


理汰からこういう目で見られることに慣れていない。


そして、これからも慣れてはいけない。


智咲の表情が強張ったことに気づいた彼が、歩調を緩めて隣に並んでくる。


「急なスケジュール変更をお願いしちゃって申し訳ない。うちの教授と懇意にしてる先生が、奈良で講演会をすることになって、急遽そっちに行くことになってね。神原教授って知ってる?免疫細胞療法の研究に力を入れてる方なんだけど」


話題が仕事の話に切り替わって、ホッと息を吐いた。


助かったと胸をなでおろしながら、頷く。


「推進機構でも、講演会お願いしたいって名前が挙がってたはず。専門用語ばっかりで、先生の名前と顔もまださっぱりなんだけど・・・」


「専門外だからしょうがないよ。分からないところはいつでも訊いて。うちの教授経由で話し通したら、スムーズに講演会の依頼も受けて貰えるかもしれないし。あの方ちょっと気難しいことで有名だから」


「そういう横の繋がりってほんと大事よね・・・・・・雪村くんとの打ち合わせでも痛感してる。顔を繋いで人脈を広げていくって、地道で一番大変なことだわ」


毎日研究所ラボに籠って検体とデータと睨めっこしてる研究員も結構大変なんだけどね」


「あ、もちろん、ここに詰めてる専門家の人たちのことも理汰のこともリスペクトしてる!」


この分野について知れば知るほど理汰の携わっている研究の難しさや素晴らしさを実感した。


彼がこの先どんなものを目指すのかはわからないけれど、明るい未来につながっている事に違いは無い。


それはもう眩いほどに。


智咲が走っても走っても追い付けないほどに。


「・・・ありがとう」


静かに理汰が答えて、智咲と目を合わせてから照れたように逸らした。


なんでそこで照れるのよとツッコミたいけれど、突っ込んでは駄目だと本能が訴えてくる。


気心知れた年下男子が急に見知らぬ異性に思えて来るのは、それはもう物語の中だけで十分だ。


「それと、ごめん。今日いつもよりも一回り小さい会議室になっちゃって」


「そんなのどこでもいいわよ。うちの古い庁舎の狭い会議室に比べたらどこでも天国並みの居心地だから、心配しないで」


ガタついたパイプ椅子と、傷だらけの長机ばかり見てきた智咲にとっては、メディカルセンターの会議室はどこぞの貸しスペース並みの快適さなのだ。


座り心地の良いハイバックチェアーしかり、テレビ会議対応の収納型の円卓しかり。


「そう?じゃあ良かった」


智咲の返事に理汰がいつものように穏やかに笑った。




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